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こころ・夏目漱石

12

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三十四

わたくしはその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座を立つ前に私はちょっと暇乞いとまごいの言葉を述べた。「また当分お目にかかれませんから」「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。「まあ九月ごろになるでしょう」「じゃずいぶんご機嫌きげんよう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた絵端書えはがきでも送って上げましょう」「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。「何まだ行くとも行かないともめていやしないんです」席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。「そんなに容易たやすく考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症にょうどくしょうが出ると、もう駄目だめなんだから」尿毒症という言葉も意味も私にはわからなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へまわるようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でもおもい出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。すると先生が突然奥さんの方を向いた。しずお前はおれより先へ死ぬだろうかね」「なぜ」「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それともおれの方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ旦那だんなが先で、細君さいくんが後へ残るのが当り前のようになってるね」「そうきまった訳でもないわ。けれども男のほうはどうしても、そら年が上でしょう」「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」「あなたは特別よ」「そうかね」「だって丈夫なんですもの。ほとんどわずらったためしがないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」「先かな」「え、きっと先よ」先生は私の顔を見た。私は笑った。「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」「どうするって……」奥さんはそこで口籠くちごもった。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分をえていた。「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定ろうしょうふじょうっていうくらいだから」奥さんはことさらに私の方を見て笑談じょうだんらしくこういった。

三十五

わたくしは立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。「君はどう思います」と先生が聞いた。先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、もとより私に判断のつくべき問題ではなかった。私はただ笑っていた。「寿命は分りませんね。私にも」「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんときまった年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のおとうさんやお母さんなんか、ほとんどおんなじよ、あなた、亡くなったのが」「亡くなられた日がですか」「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。「どうしてそう一度に死なれたんですか」奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれをさえぎった。「そんな話はおしよ。つまらないから」先生は手に持った団扇うちわをわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。しずおれが死んだらこのうちをお前にやろう」奥さんは笑い出した。「ついでに地面も下さいよ」「地面はひとのものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものはみんなお前にやるよ」「どうも有難う。けれども横文字の本なんかもらっても仕様がないわね」「古本屋に売るさ」「売ればいくらぐらいになって」先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍なんべんおっしゃるの。後生ごしょうだからもうい加減にして、おれが死んだらはして頂戴ちょうだい縁喜えんぎでもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんのいやがる事をいわなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。「ご病人をお大事だいじに」と奥さんがいった。「また九月に」と先生がいった。私は挨拶あいさつをして格子こうしの外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀もくせい一株ひとかぶが、私の行手ゆくてふさぐように、夜陰やいんのうちに枝を張っていた。私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉におおわれているそのこずえを見て、来たるべき秋の花と香をおもい浮べた。私は先生のうちとこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。私が偶然そのの前に立って、再びこの宅の玄関をまたぐべき次の秋に思いをせた時、今まで格子の間からしていた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調ととのえる買物もあったし、馳走ちそうを詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただにぎやかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな男女なんにょがぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある酒場バーへ連れ込んだ。私はそこで麦酒ビールの泡のような彼の気燄きえんを聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。

三十六

わたくしはその翌日よくじつも暑さをおかして、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫おっくうに感ぜられた。私は電車の中で汗をきながら、ひとの時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者いなかものを憎らしく思った。私はこの一夏ひとなつを無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを履行りこうするに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を丸善まるぜんの二階でつぶす覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟はんえりであった。小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上あたいきわめて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんをわずらわさなかったかを悔いた。私はかばんを買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇おどかすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切いっさい土産みやげものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡りょうけんわからないというよりも、その言葉が一種の滑稽こっけいとして訴えたのである。私は暇乞いとまごいをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底とてももとのような健康体になる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのはさだめて心細いだろう、我々も子として遺憾いかんいたりであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事をおもい浮べた。ことに二、三日前晩食ばんめしに呼ばれた時の会話をおもい出した。「どっちが先へ死ぬだろう」私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然はっきり分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるよりほかに仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を果敢はかないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。

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