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こころ・夏目漱石

18

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十六

父は時々囈語うわことをいうようになった。乃木大将のぎたいしょうに済まない。実に面目次第めんぼくしだいがない。いえ私もすぐおあとから」こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元まくらもとへ集めておきたがった。気のたしかな時はしきりにさびしがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことにへやうち見廻みまわして母の影が見えないと、父は必ず「おみつは」と聞いた。聞かないでも、眼がそれを物語っていた。わたくしはよくって母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が仕掛しかけた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があった。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光おまえにも色々世話になったね」などとやさしい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと丈夫であった昔の父をその対照としておもい出すらしかった。「あんなあわれっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶんひどかったんだよ」母は父のためにほうきで背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍なんべんもそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念かたみのように耳へ受け入れた。父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言ゆいごんらしいものを口に出さなかった。「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のためにしだと考えていた。二人は決しかねてついに伯父おじに相談をかけた。伯父も首を傾けた。「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」話はとうとう愚図愚図ぐずぐずになってしまった。そのうちに昏睡こんすいが来た。例の通り何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、はたにいるものも助かります」といった。父は時々眼を開けて、だれはどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻さっきまでそこにすわっていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、やみを縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡こんすい状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。そのうち舌が段々もつれて来た。何かいい出してもしり不明瞭ふめいりょうおわるために、要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。我々はもとより不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。「頭を冷やすとい心持ですか」「うん」私は看護婦を相手に、父の水枕みずまくらを取りえて、それから新しい氷を入れた氷嚢ひょうのうを頭の上へせた。がさがさに割られてとがり切った氷の破片が、ふくろの中で落ちつく間、私は父の禿げ上った額のはずれでそれを柔らかにおさえていた。その時兄が廊下伝ろうかづたいにはいって来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。なみ状袋じょうぶくろにも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧ていねいのりり付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれをふところに差し込んだ。

十七

その日は病人の出来がことに悪いように見えた。わたくしかわやへ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で誰何すいかした。「どうも様子が少し変だからなるべくそばにいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。私もそう思っていた。懐中かいちゅうした手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。父は眼を開けて、そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたびに首肯うなずいた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。「どうも色々お世話になります」父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺まくらべを取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。やがてそのうちの一人が立って次のへ出た。するとまた一人立った。私も三人目にとうとう席をはずして、自分のへやへ来た。私には先刻さっきふところへ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる所作しょさには違いなかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息ひといきにそこで読み通す訳には行かなかった。私は特別の時間をぬすんでそれにてた。私は繊維の強い包み紙を引き掻くようにき破った。中から出たものは、縦横たてよこに引いたけいの中へ行儀よく書いた原稿ようのものであった。そうして封じる便宜のために、おりたたまれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。私の心はこの多量の紙と印気インキが、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。私は同時に病室の事が気にかかった。私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父おじからか、呼ばれるにきまっているという予覚よかくがあった。私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。私はそわそわしながらただ最初の一ページを読んだ。その頁はしものようにつづられていた。「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久にいっするようになります。そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるでうそになります。私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事ができた。私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣きづかいはないと、私は初手から信じていた。しかし筆をることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気になったのだろう。先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづいてあとを読もうとした。その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。私はまた驚いて立ち上った。廊下をけ抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。私はいよいよ父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。

十八

病室にはいつの間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸かんちょうを試みるところであった。看護婦は昨夜ゆうべの疲れを休めるために別室で寝ていた。慣れない兄はってまごまごしていた。わたくしの顔を見ると、「ちょっと手をおし」といったまま、自分は席に着いた。私は兄に代って、油紙あぶらがみを父のしりの下にてがったりした。父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元まくらもとすわっていた医者は、浣腸かんちょうの結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰りぎわに、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。私は今にもへんがありそうな病室を退しりぞいてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこしもゆっくりした気分になれなかった。机の前に坐るやいなや、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖いふが私の手をふるわした。私は先生の手紙をただ無意味にページだけ剥繰はぐって行った。私の眼は几帳面きちょうめんわくの中にめられた字画じかくを見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束おぼつかなかった。私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りにたたんで机の上に置こうとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結ぎょうけつしたように感じた。私はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割でさかさに読んで行った。私は咄嗟とっさあいだに、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字もんじを、眼で刺し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私はさかさまに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈じれったそうに畳んだ。私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺まくらべ存外ぞんがい静かであった。頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招てまねぎして、「どうですか様子は」と聞いた。母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯うなずいた。父ははっきり「有難う」といった。父の精神は存外朦朧もうろうとしていなかった。私はまた病室を退しりぞいて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、たもとの中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者の家へけ込んだ。私は医者から父がもう三日さんちつだろうか、そこのところを判然はっきり聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎あいにく留守であった。私にはじっとして彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心のきもなかった。私はすぐくるま停車場ステーションへ急がせた。私は停車場の壁へ紙片かみぎれてがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いでうちへ届けるように車夫しゃふに頼んだ。そうして思い切ったいきおいで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、またたもとから先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。

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