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こころ・夏目漱石

23

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十三

「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。自分の心が自分のすわっている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました。要するに奥さん始めうちのものが、ひがんだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんなふうに取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際私を鷹揚おうようだと観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で胡魔化ごまかされていたのかもわかりません。私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも笑談じょうだんをいうようになりました。茶を入れたからといって向うのへやへ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域がえたように感じました。それがために大切な勉強の時間をつぶされる事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には一向いっこう邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより閑人ひまじんでした。お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私のへやの前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室のふすまの影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そこへ来てちょっとまります。それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、はたで見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。ページの上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」と聞くのです。お嬢さんの部屋へやは茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は仕切しきりがあっても、ないと同じ事で、親子二人がったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても滅多めったに返事をした事がありませんでした。時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこにすわって話し込むような場合もそのうちに出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安におかされて来るのです。そうして若い女とただ差向さしむかいで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でした。これが琴をさらうのに声さえろくに出せなかったあの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれがわかっていました。よく解るように振舞って見せる痕迹こんせきさえ明らかでした。

十四

「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息ひといきするのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしそのころの私たちは大抵そんなものだったのです。奥さんは滅多めったに外出した事がありませんでした。たまにうちを留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子をく観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、る場合には、私に対してあんに警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。私は奥さんの態度をどっちかに片付かたづけてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。しかし叔父おじあざむかれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いをさしはさまずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかがいつわりだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私にはみ込めなかったのです。理由わけを考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字になすり付けて我慢した事もありました。必竟ひっきょう女だからああなのだ、女というものはどうせなものだ。私の考えは行きまればいつでもここへ落ちて来ました。それほど女を見縊みくびっていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私の理屈はその人の前に全く用をさないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高けだかい気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに両端りょうはじがあって、その高いはじには神聖な感じが働いて、低い端には性欲せいよくが動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点をつらまえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体からだでした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉のにおいを帯びていませんでした。私は母に対して反感をいだくと共に、子に対して恋愛の度をして行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それがたがちがいに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのをむのだと解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念のきざさなかった私は、その時らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。

十五

「私は奥さんの態度を色々綜合そうごうして見て、私がここのうちで充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。ひとうたぐり始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、だまされるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。私はひとを信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうとつとめました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を知りたがるのです。私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました。私は話してい事をしたと思いました。私はうれしかったのです。私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。それからは私を自分の親戚みよりに当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の猜疑心さいぎしんがまた起って来ました。私が奥さんをうたぐり始めたのは、ごく些細ささいな事からでした。しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父おじと同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようとつとめるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾こうかつな策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々にがにがしい唇をみました。奥さんは最初から、無人ぶにんさむしいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれをうそとは思いませんでした。懇意になって色々打ち明け話を聞いたあとでも、そこに間違まちがいはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大してゆたかだというほどではありませんでした。利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を嘲笑ちょうしょうしました。馬鹿だなといって、自分をののしった事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。私の煩悶はんもんは、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくってたまらなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。

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