LIB read シンボルLIB read
認証確認中...
作品を探す朗読する投稿する

LIB READ READER

永日小品・夏目漱石

8

朗読未選択 / 朗読停止中

火事

息が切れたから、立ち留まって仰向くと、火の粉こがもう頭の上を通る。霜しもを置く空の澄み切って深い中に、数を尽くして飛んで来ては卒然そつぜんと消えてしまう。かと思うと、すぐあとから鮮あざやかなやつが、一面に吹かれながら、追おっかけながら、ちらちらしながら、熾さかんにあらわれる。そうして不意に消えて行く。その飛んでくる方角を見ると、大きな噴水を集めたように、根が一本になって、隙間すきまなく寒い空を染めている。二三間先に大きな寺がある。長い石段の途中に太い樅もみが静かな枝を夜よに張って、土手から高く聳そびえている。火はその後うしろから起る。黒い幹と動かぬ枝をことさらに残して、余る所は真赤まっかである。火元はこの高い土手の上に違ちがいない。もう一町ほど行って左へ坂を上あがれば、現場げんばへ出られる。また急ぎ足に歩き出した。後から来るものは皆追越して行く。中には擦れ違に大きな声をかけるものがある。暗い路は自おのずと神経的に活いきて来た。坂の下まで歩いて、いよいよ上のぼろうとすると、胸を突くほど急である。その急な傾斜を、人の頭がいっぱいに埋うずめて、上から下まで犇ひしめいている。焔ほのおは坂の真上から容赦ようしゃなく舞い上る。この人の渦うずに捲まかれて、坂の上まで押し上げられたら、踵くびすを回めぐらすうちに焦こげてしまいそうである。もう半町ほど行くと、同じく左へ折れる大きな坂がある。上のぼるならこちらが楽で安全であると思い直して、出合頭であいがしらの人を煩わずらわしく避よけて、ようやく曲り角まで出ると、向うから劇はげしく号鈴ベルを鳴らして蒸汽喞筒じょうきポンプが来た。退のかぬものはことごとく敷しき殺ころすぞと云わぬばかりに人込の中を全速力で駆かり立てながら、高い蹄ひづめの音と共に、馬の鼻面はなづらを坂の方へ一捻ひとひねりに向直むけなおした。馬は泡を吹いた口を咽喉のどに摺すりつけて、尖とがった耳を前に立てたが、いきなり前足を揃そろえてもろに飛び出した。その時栗毛の胴が、袢天はんてんを着た男の提灯ちょうちんを掠かすめて、天鵞絨びろうどのごとく光った。紅色べにいろに塗った太い車の輪が自分の足に触れたかと思うほど際きわどく回った。と思うと、喞筒は一直線に坂を馳かけ上がった。坂の中途へ来たら、前は正面にあった燄ほのおが今度は筋違すじかいに後の方に見え出した。坂の上からまた左へ取って返さなければならない。横丁よこちょうを見つけていると、細い路次ろじのようなのが一つあった。人に押されて入り込むと真暗である。ただ一寸いっすんのセ﹅キ﹅もないほど詰つんでいる。そうして互に懸命な声を揚あげる。火は明かに向うに燃えている。十分の後のちようやく路次を抜けて通りへ出た。その通りもまた組屋敷くみやしきぐらいな幅で、すでに人でいっぱいになっている。路次を出るや否や、さっき地じを蹴けって、馳け上がった蒸汽喞筒が眼の前にじっとしていた。喞筒はようやくここまで馬を動かしたが、二三間先きの曲り角に妨さまたげられて、どうする事もできずに、焔を見物している。焔は鼻の先から燃え上がる。傍そばに押し詰められているものは口々にどこだ、どこだと号さけぶ。聞かれるものは、そこだそこだと云う。けれども両方共に焔の起る所までは行かれない。燄は勢いを得て、静かな空を煽あおるように、凄すさまじく上のぼる。……翌日午過ひるすぎ散歩のついでに、火元を見届みとどけようと思う好奇心から、例の坂を上って、昨夕ゆうべの路次を抜けて、蒸汽喞筒の留まっていた組屋敷へ出て、二三間先の曲角まがりかどをまがって、ぶらぶら歩いて見たが、冬籠ふゆごもりと見える家が軒を並べてひそりと静まっているばかりである。焼け跡はどこにも見当みあたらない。火の揚あがったのはこの辺だと思われる所は、奇麗きれいな杉垣ばかり続いて、そのうちの一軒からは微かすかに琴ことの音ねが洩もれた。

霧

昨宵ゆうべは夜中よじゅう枕の上で、ばちばち云う響を聞いた。これは近所にクラパム・ジャンクションと云う大停車場おおステーションのある御蔭おかげである。このジャンクションには一日のうちに、汽車が千いくつか集まってくる。それを細こまかに割りつけて見ると、一分に一ひと列車ぐらいずつ出入でいりをする訳になる。その各列車が霧きりの深い時には、何かの仕掛しかけで、停車場間際まぎわへ来ると、爆竹ばくちくのような音を立てて相図をする。信号の灯光は青でも赤でも全く役に立たないほど暗くなるからである。寝台ねだいを這はい下りて、北窓の日蔽ブラインドを捲まき上げて外面そとを見おろすと、外面は一面に茫ぼうとしている。下は芝生の底から、三方煉瓦れんがの塀へいに囲われた一間余いっけんよの高さに至るまで、何も見えない。ただ空むなしいものがいっぱい詰っている。そうして、それが寂しんとして凍こおっている。隣の庭もその通りである。この庭には奇麗きれいなローンがあって、春先の暖かい時分になると、白い髯ひげを生はやした御爺おじいさんが日向ひなたぼっこをしに出て来る。その時この御爺さんは、いつでも右の手に鸚鵡おうむを留まらしている。そうして自分の目を鸚鵡の嘴くちばしで突つかれそうに近く、鳥の傍そばへ持って行く。鸚鵡は羽搏はばたきをして、しきりに鳴き立てる。御爺さんの出ないときは、娘が長い裾すそを引いて、絶え間なく芝刈しばかり器械をローンの上に転ころがしている。この記憶に富んだ庭も、今は全く霧きりに埋うまって、荒果あれはてた自分の下宿のそれと、何の境もなくのべつに続いている。裏通りを隔へだてて向う側に高いゴシック式の教会の塔がある。その塔の灰色に空を刺す天辺てっぺんでいつでも鐘が鳴る。日曜はことにはなはだしい。今日は鋭く尖とがった頂きは無論の事、切石を不揃ふそろいに畳み上げた胴中どうなかさえ所在ありかがまるで分らない。それかと思うところが、心持黒いようでもあるが、鐘の音ねはまるで響かない。鐘の形の見えない濃い影の奥に深く鎖とざされた。表へ出ると二間ばかり先は見える。その二間を行き尽くすとまた二間ばかり先が見えて来る。世の中が二間四方に縮ちぢまったかと思うと、歩けば歩あるくほど新しい二間四方が露あらわれる。その代り今通って来た過去の世界は通るに任まかせて消えて行く。四つ角でバスを待ち合せていると、鼠色ねずみいろの空気が切り抜かれて急に眼の前へ馬の首が出た。それだのにバスの屋根にいる人は、まだ霧を出切らずにいる。こっちから霧を冒おかして、飛乗って下を見ると、馬の首はもう薄ぼんやりしている。バスが行き逢あうときは、行き逢った時だけ奇麗きれいだなと思う。思う間もなく色のあるものは、濁った空くうの中に消えてしまう。漠々ばくばくとして無色の裡うちに包まれて行った。ウェストミンスター橋を通るとき、白いものが一二度眼を掠かすめて翻ひるがえった。眸ひとみを凝こらして、その行方ゆくえを見つめていると、封じ込められた大気の裡うちに、鴎かもめが夢のように微かすかに飛んでいた。その時頭の上でビッグベンが厳おごそかに十時を打ち出した。仰ぐと空の中でただ音おんだけがする。ヴィクトリヤで用を足たして、テート画館の傍はたを河沿かわぞいにバタシーまで来ると、今まで鼠色ねずみいろに見えた世界が、突然と四方からばったり暮れた。泥炭ピートを溶といて濃く、身の周囲まわりに流したように、黒い色に染められた重たい霧が、目と口と鼻とに逼せまって来た。外套がいとうは抑おさえられたかと思うほど湿しめっている。軽い葛湯くずゆを呼吸するばかりに気息いきが詰まる。足元は無論穴蔵あなぐらの底を踏むと同然である。自分はこの重苦しい茶褐色の中に、しばらく茫然ぼうぜんと佇立たたずんだ。自分の傍そばを人が大勢通るような心持がする。けれども肩が触れ合わない限りははたして、人が通っているのかどうだか疑わしい。その時この濛々もうもうたる大海の一点が、豆ぐらいの大きさにどんよりと黄色く流れた。自分はそれを目標めあてに、四歩ばかりを動かした。するとある店先の窓硝子まどガラスの前へ顔が出た。店の中では瓦斯ガスを点つけている。中は比較的明かである。人は常のごとくふるまっている。自分はやっと安心した。バタシーを通り越して、手探てさぐりをしないばかりに向うの岡へ足を向けたが、岡の上は仕舞屋しもたやばかりである。同じような横町が幾筋も並行へいこうして、青天の下もとでも紛まぎれやすい。自分は向って左の二つ目を曲ったような気がした。それから二町ほど真直まっすぐに歩いたような心持がした。それから先はまるで分らなくなった。暗い中にたった一人立って首を傾かたむけていた。右の方から靴の音が近寄って来た。と思うと、それが四五間手前まで来て留まった。それからだんだん遠退とおのいて行く。しまいには、全く聞えなくなった。あとは寂しんとしている。自分はまた暗い中にたった一人立って考えた。どうしたら下宿へ帰れるかしらん。

EPISODE COMMENTS

この話の感想

感想 0件
ログインして感想を書く

8話感想一覧

感想一覧を読み込み中...