朝の電車が止まったのは、いつもより二駅手前だった。
車内放送は短く、よく聞き取れなかった。ただ、先行列車の確認が終わるまでしばらく停車するらしい。私は立ったまま、窓の外を見ていた。線路の向こうに、低いホームがひとつ見える。古い駅だった。屋根は短く、看板の文字もかすれている。
やがて「この先で折り返します」と案内が入った。今日は遅刻だな、と思いながら、私は乗り換えのためにその駅で降りた。
改札は無人だった。ICカードをかざすと、乾いた音が一つ鳴っただけだ。駅前は静かで、コンビニも自動販売機もない。あるのは細い道と、まだ開ききらない朝の光、それからホームへ続く階段だけだった。
私は反対側の出口を探そうとしたが、案内板には線路の向こうへ抜ける道がない。改札口の横に、古い時刻表が貼られている。平日は一日に八本。次の電車は二十分後だった。
ホームで待つことにした。
ベンチは木製で、少し湿っていた。座ると、風が弱く吹き抜けていく。鳥の声も遠い。通勤の時間帯だというのに、この駅だけが取り残されたみたいだった。
ふと、視線を感じた。
線路の向こう、もう使われていないはずの下りホームに、女の人が立っていた。
白いコートに、黒い鞄。年齢はわからない。髪は肩につくくらいで、風に少し揺れている。彼女は線路の先を見ていた。電車を待つ人の姿に見えたが、足元には白線がなく、ホームの端にぴたりと立っているのが妙に気になった。
私は目をそらした。見てはいけない気がした。
けれど次に見ると、まだいた。
それから、ずっといた。
電車は来ない。彼女も動かない。私はスマートフォンを取り出したが、電波が弱く、時刻表示がぐらつくように見えた。画面を消して顔を上げると、女の人は少しだけ近づいていた。
いや、近づいたのではない。
こちらを向いたのだ。
目が合ったわけではない。顔はここからは見えない。ただ、彼女の頭の向きが、私のいるホームへ変わった。それだけで、背中が冷たくなった。
私は立ち上がった。荷物を持ち直すと、靴の裏で砂利が小さく鳴った。すると、向こうのホームでも、同じ音がした。
私は歩くのをやめた。
女の人も、止まった。
しばらくして、また電車の音が遠くから近づいてきた。今度こそ来るらしい。私はほっとして、線路の先を見た。しかし、見えてきたのは普通の通勤電車ではなかった。
車体は古く、窓が曇っている。行き先表示は真っ白で、明かりも少ない。ゆっくりと駅へ滑り込んでくるのに、車内は妙に静かだった。乗客の姿が見えない。
私は降車位置から少し離れた。
電車が止まる。扉が開く。
その瞬間、向こうのホームにいた女の人が、まっすぐこちらへ歩き出した。
線路の上を。
音もなく、段差もなく、まるで見えない床でもあるみたいに、こちらへ来る。私は声を出せなかった。喉が乾いている。
彼女は私の前を通り過ぎ、開いた扉の中へ入っていった。
その背中を見たとき、私ははじめて気づいた。
白いコートの背に、濡れたような手形がたくさんついていた。小さなものが、いくつも、いくつも。
扉が閉まる。
電車はすぐに発車した。私は線路脇に立ったまま、ただ見送るしかなかった。車内には誰もいないはずなのに、最後尾の窓に、こちらを向く顔が一つだけ見えた。
それは、さっきの女の人だった。
電車が遠ざかると、駅はまた元の静けさに戻った。風がホームを抜け、駅名標の紙片を一枚めくった。
私はようやく動けた。階段を降り、改札へ向かう。けれど駅舎の壁に貼られた時刻表を見たとき、足が止まった。
次の電車の欄に、さっきまでなかった一行が増えていた。
「上り 終点行き 五分後」
終点の文字だけ、少し黒が濃い。
私は笑うこともできず、そのまま改札を出た。朝の道は相変わらず細く、どの家の窓も閉まっている。振り返ると、駅のホームにはもう誰もいなかった。
ただ、踏切の向こうで、ひとり分の足音だけが、私のあとをゆっくり追ってきた。

