LIB READ READER

虜美人草・夏目漱石

10

朗読未選択 / 朗読停止中朗読未選択 / 朗読停止中

なぞの女は宗近むねちか家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団たどんが水晶と光る。禅家では柳は緑花はくれないと云う。あるいは雀はちゅちゅでからすはかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人をなべの中へ入れて、方寸ほうすん杉箸すぎばしぜ繰り返す。芋をもってみずからおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石ダイヤモンドのようなものである。いやに光る。そしてその光りの出所でどころが分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽かぐらめんには二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。真率なる快活なる宗近家の大和尚だいおしょうは、かく物騒な女があめしたに生をけて、しきりに鍋の底をき廻しているとは思いも寄らぬ。唐木からきの机に唐刻の法帖ほうじょうを乗せて、厚い坐布団の上に、信濃しなのの国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中からはちうたっている。謎の女はしだいに近づいてくる。悲劇マクベスの妖婆ようばなべの中に天下の雑物ぞうもつさらい込んだ。石の影に三十日みそかの毒を人知れず吹くよるひきと、燃ゆる腹を黒きかく蠑螈いもりきもと、蛇のまなこ蝙蝠かわほりの爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果ててとがれる爪は、世をのろ幾代いくよさびせ尽くしたるくろがね火箸ひばしを握る。煮え立った鍋はどろどろの波をあわと共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは真昼間まっぴるまである。鍋の底からは愛嬌あいきょういて出る。ただようは笑の波だと云う。ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからがひんよく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ能掛のうがかりである。大和尚だいおしょうこわがらぬのも無理はない。「いや。だいぶ御暖おあったかになりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きなてのひらを出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。「そののちは……」「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。「ちょっと出ますんでございますが、つい無人ぶにんだもので、出よう出ようと思いながら、とうとう御無沙汰ごぶさたになりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐあとをつける。「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。「御宅でも皆様御変りもなく……毎々欽吾きんご藤尾ふじおが出まして、御厄介ごやっかいにばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」頭はここでようやく上がる。阿父おとっさんはほっと気息いきをつく。「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやくあったかになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが、「どうです御宅の桜は。今頃はちょうどさかりでしょう」で結んでしまった。「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日ぜんがちょうど観頃みごろでございましたが、一昨日いっさくじつの風で、だいぶいためられまして、もう……」「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え?浅葱桜あさぎざくらそうそう。あの色が珍らしい」「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などはすごいような心持が致します」「そうですか、アハハハハ。荒川あらかわには緋桜ひざくらと云うのがあるが、浅葱桜あさぎざくらは珍らしい」「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」「ないですよ。もっとも桜も好事家こうずかに云わせると百幾種とかあるそうだから……」「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間もはじめが京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気のんきなものでアハハハハ。――どうです粗菓そかだが一つ御撮おつまみなさい。岐阜ぎふ柿羊羹かきようかん「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」「あんまり、うまいものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人ははしを上げて皿の中からぎ取った羊羹の一片ひときれを手に受けて、ひとりでむしゃむしゃ食う。「嵐山と云えば」甲野こうのの母は切り出した。「せんだってじゅう欽吾きんごがまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭おかげ様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者わがままものでございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友ほうゆうと申すものがただの一人もございませんそうで……」「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合つきあいが出来にくくなる。アハハハハ」「私には女でいっこう分りませんが、何だかふさいでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。うちにさえいるとあなた、いもとにばかりからかって――いや、あれでも困る」「いえ、誠に陽気で淡泊さっぱりしてて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人あれの病気のせいだから、今さら愚癡ぐちをこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」「ごもっともで」と宗近老人は真面目まじめに答えたが、ついでに灰吹はいふきをぽんとたたいて、銀の延打のべうち煙管きせるを畳の上にころりと落す。雁首がんくびから、余る煙が流れて出る。「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」「御蔭様で……」「せんだってうちへ見えた時などはみんなと馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」「へええ」これは仔細しさいらしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。「そりゃ、どうも」彼人あれの病気では、今までどのくらい心配したか分りません」「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」なぞの女は自分の思う事をひとに云わせる。手をくだしては落度になる。向うですべって転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような泥海ぬかるみを知らぬに用意するばかりである。「その結婚の事を朝暮あけくれ申すのでございますが――どうっても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国でくなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日いちじつも早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭からねつけられるのみで……」「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母おっかさんだけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」「御親切にどうもありがとう存じます」「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人背負しょい込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳いくつになっても心配は絶えませんね」此方こちら様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶つれあいに合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母おっかさんわたしはこんな身体からだで、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾にむこを貰って、阿母おっかさんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」謎の女は和尚おしょうをじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。紫檀したんふたを丁寧にかぶせる。煙管きせるは転がった。「なるほど」和尚の声は例に似ず沈んでいる。「そうかと申してうみの母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口をきますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」「ふん、困るね」和尚は手提てさげの煙草盆の浅い抽出ひきだしから欝金木綿うこんもめん布巾ふきんを取り出して、くじらつる鄭重ていちょうに拭き出した。「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云いにくければ」「いろいろ御心配を掛けまして……」「そうして見るかね」「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」「なにそりゃ、承知しているから、当人の気にさわらないように云うつもりですがね」「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそあとが大変な騒ぎになりますから……」「弱るね、そう、かんが高くなってちゃあ」「まるで腫物はれものさわるようで……」「ふうん」和尚おしょうは腕組を始めた。ゆきが短かいので太いひじ無作法ぶさほうに見える。なぞの女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は疾言しつげん遽色きょしょくである。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口をそろえて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の鄭重ていちょうなのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。「もし彼人あれが断然うちを出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」むこかね。聟となると……」「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」「そりゃ、そう」「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」左様さようさね」と和尚は単純な首を傾けたが、「藤尾さんは幾歳いくつですい」「もう、明けてになります」「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげたてのひらを下からのぞき込むようにする。「いえもう、身体なりばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」話はほうって置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。「こちらでも、糸子さんやら、はじめさんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑気のんきな女だとおぼし召すでございましょうが……」「いえ、どう致して、実はわたしの方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――はじめも外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、今日明日きょうあすと云う訳にも行かないですが、おそかれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」「でございますとも」「ついては、その、藤尾さんなんですがね」「はい」「あのかたなら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」「はい」「どうでしょう、阿母おっかさんの御考は」「あのとおり行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」「いいじゃ、ありませんか」「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」「御不足ならともかく、そうでなければ……」「不足どころじゃございません。願ったりかなったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ彼人あれに困りますので。一さんは宗近家を御襲おつぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」「そう云うものでございましょうかね」「それに御承知の通、阿父おとっさんがいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなればくなった人も満足だろう」「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶つれあいさえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくってもよろしい――のでございますが」謎の女の云う事はしだいに湿気しっけを帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。かろうじて謎の女の謎をここまで叙しきたった時、筆は、一歩も前へ進む事がいやだと云う。日を作り夜を作り、海とおかとすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。日のあたる別世界には二人の兄妹きょうだいが活動する。六畳の中二階ちゅうにかいの、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽しがらきはちに、わだかまる根を盛りあげて、くの字の影をえんに伏せる。一間いっけん唐紙からかみは白地に秦漢瓦鐺しんかんがとうの譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮のとこは、軸を嫌って、籠花活かごはないけに軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。糸子は床の間に縫物の五色を、あやと乱して、糸屑いとくずのこぼるるほどの抽出ひきだしを二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の行方ゆくえは、一針ごとに春をきざかすかな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。腹這はらばい弥生やよいの姿、寝ながらにして天下の春を領す。物指ものさしの先でしきりに敷居をたたいている。「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」「替えたげましょうか」「そうさ。替えて貰ったところであんまもうかりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」「何が?」「何がって、この松さ。こりゃたしか阿父おとっさん苔盛園たいせいえんで二十五円で売りつけられたんだろう」「ええ。大事な盆栽よ。転覆ひっくりかえしでもしようもんなら大変よ」「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺おとっさんも阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちらかつぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」「おやいやだ。そりゃわたしは無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」「だって証拠があるんですもの」「馬鹿の証拠がかい」「ええ」「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」「その盆栽はね」「うん、この盆栽は」「その盆栽はね――知らなくって」「知らないとは」「私大嫌よ」「へええ、今度こんだこっちの大発明だ。ハハハハ。きらいなものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」阿父おとうさまが御自分で持っていらしったのよ」「何だって」「日があたって二階の方が松のために好いって」阿爺おやじも親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」「なに、そりゃ、ちょっと。発句ほっく?」「まあ発句に似たもんだ」「似たもんだって、本当の発句じゃないの」「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」「これ?これは伊勢崎いせざきでしょう」「いやにぴかつくじゃないか。兄さんのかい」阿爺おとうさまのよ」阿爺おとっさんのものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の袖無ちゃんちゃん以後御見限おみかぎりだね」「あらいやだ。あんなうそばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」「おや、ひどい襟垢えりあかだ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんはあぶらが多過ぎるんですよ」「何が多過ぎても、もう駄目だよ」「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」「新らしいんだろうね」「ええ、洗って張ったの」「あの親父おとっさんの拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」「何が」「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには御古おふるばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある陣笠じんがさをかぶれと云うかも知れない」「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」「達者なのは口だけか。可哀想かわいそうに」「まだ、あるのよ」宗近君は返事をやめて、欄干らんかん隙間すきまから庭前にわさきの植込を頬杖ほおづえに見下している。「まだあるのよ。一寸ちょいとと針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんとつまんだ合せ目を、見るけて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。「まだあるのよ。兄さん」「何だい。口だけでたくさんだよ」「だって、まだあるんですもの」と針の針孔めど障子しょうじへ向けて、可愛かわいらしい二重瞼ふたえまぶたを細くする。宗近君は依然として長閑のどかな心を頬杖に託して庭をながめている。「云って見ましょうか」「う。うん」下顎したあごは頬杖で動かす事が出来ない。返事は咽喉のどから鼻へ抜ける。「あ﹅し﹅。分ったでしょう」「う。うん」紺の糸をくちびる湿しめして、指先にとがらすは、射損いそくなった針孔を通す女のはかりごとである。「糸公、誰か御客があるのかい」「ええ、甲野の阿母おっかさん御出おいでよ」「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうていかなわない」「でもひんがいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」「そう兄さんがきらいじゃ、世話の仕栄しばえがない」「世話もしない癖に」「ハハハハ実は狐の袖無ちゃんちゃんの御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」「いえ、上野や向島むこうじまは駄目だが荒川あらかわは今がさかりだよ。荒川から萱野かやのへ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山たんとはないぜ」「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指をしてちょうだい」「そうして裁縫しごとを勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石ダイヤモンド指環ゆびわを買ってやる」うまいのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」「あるのって、――今はないさ」「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」「えらいからさ」「まあ――どこかそこいらにはさみはなくって」「その蒲団ふとんの横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落しゃれかい」「これ?奇麗きれいでしょう。縮緬ちりめん御申おさるさん」「御前がこしらえたのかい。感心にうまく出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな椽側えんがわへ煙草の灰を捨てるのは御廃およしなさいよ。――これをして上げるから」「なんだいこれは。へええ。板目紙いためがみの上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。閑人ひまじんだなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる?糸のくずをかい。へええ」「兄さんは藤尾さんのようなかたが好きなんでしょう」「御前のようなのも好きだよ」「私は別物として――ねえ、そうでしょう」いやでもないね」「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」「おかしい?おかしくってもいいや。――甲野の叔母おばさんはしきりに密談をしているね」「ことにると藤尾さんの事かも知れなくってよ」「そうか、それじゃ聴きに行こうか」「あら、御廃しなさいよ――わたし、火熨ひのしがいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」「自分のうちで、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」「どうも剣呑けんのんだね。それじゃこっちも気息いきを殺して寝転ねころんでるのか」「気息を殺さなくってもいいわ」「じゃ気息を活かして寝転ぶか」「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」裁縫しごとの手をめて、火熨に逡巡ためらっていた糸子は、入子菱いりこびしかがった指抜をいて、鵇色ときいろしろかねの雨を刺す針差はりさしを裏に、如鱗木じょりんもくの塗美くしきふたをはたと落した。やがて日永ひながの窓に赤くなった耳朶みみたぶのあたりを、平手ひらてで支えて、右のひじを針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れたひざを斜めにくずした。襦袢じゅばんの袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なくすべって、くっきりと普通つねよりは明かなる肉の柱が、ちょうと傾く絹紐リボンの下にあざやかである。「兄さん」「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」「藤尾さんは駄目よ」「駄目だ?駄目とは」「だって来る気はないんですもの」「御前聞いて来たのか」「そんな事がまさか無躾ぶしつけに聞かれるもんですか」「聞かないでも分かるのか。まるで巫女いちこだね。――御前がそう頬杖ほおづえを突いて針箱へたれているところは天下の絶景だよ。妹ながら天晴あっぱれな姿勢だハハハハ」沢山たんと御冷おひやかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」云いながら糸子は首をささえた白い腕をぱたりと倒した。そろった指が針箱の角をおさえるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、し付けられた手のあと耳朶みみたぶ共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う二重ふたえまぶたは、涼しいひとみを、長いまつげに隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴をひじねて起き上がる。「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。派出はでな色の絹紐リボンがちらりと前の方へ顔を出す。「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」「そう」俯目ふしめになった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」今度こんだの試験の結果はまだ分らないの」「もうじきだろう」「今度は是非及第なさいよ」「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のあるかたが好きなんですよ」「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあたとえに云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」「うん」「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」「そうか。おやおや」「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉のいたりだ」「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」「あんまり気楽過ぎるよ」「ホホホホおかしいのね。何だかちっともにならないようね」「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあそう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」「そりゃ思うわ」「小野さんとどっちが好い」「そりゃ兄さんの方が好いわ」「甲野さんとは」「知らないわ」深い日は障子をとおして糸子の頬を暖かに射る。俯向うつむいた額の色だけがいちじるしく白く見えた。「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」「あら」ひるがえる襦袢じゅばんそでのほのめくうちを、二本の指に、こことおさえて、軽く抜き取る。「ハハハハ見えない所でも、うまく手が届くね。盲目めくらにするとかんの好い按摩あんまさんが出来るよ」「だってれてるんですもの」「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」「なに」「京都の宿屋の隣にことを引く別嬪べっぴんがいてね」端書はがきに書いてあったんでしょう」「ああ」「あれなら知っててよ」「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山あらしやまへ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚みとれて茶碗を落してしまってね」「あら、本当?まあ」「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」うそよ」「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」「それが何かの因縁いんねんだよ」「人を……」「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」「もうたくさん」「たくさんならそう」「その女のかたは何とおっしゃるの、名前は」「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」「教えたって好いじゃありませんか」「ハハハハそう真面目まじめにならなくっても好い。実はうそだ。全く兄さんの作り事さ」にくらしい」糸子はめでたく笑った。

EPISODE COMMENTS

この話の感想

感想 0

10話感想一覧

感想一覧を読み込み中...