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虜美人草・夏目漱石

15

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十五

部屋は南を向く。仏蘭西式フランスしきの窓はゆかを去る事五寸にして、すぐ硝子ガラスとなる。け放てば日が這入はいる。あたたかい風が這入る。日は椅子いすの足で留まる。風は留まる事を知らぬ故、容赦なく天井てんじょうまで吹く。窓掛の裏まで渡る。からりとして朗らかな書斎になる。仏蘭西窓を右に避けて一脚の机をえる。蒲鉾形かまぼこなりに引戸をおろせば、上からじょうがかかる。明ければ、緑の羅紗らしゃを張り詰めた真中を、斜めに低く手元へけずって、背を平らかに、書を開くべき便宜たよりとする。下は左右を銀金具の抽出ひきだしに畳み卸してその四つ目が床に着く。床はくすの木の寄木よせき仮漆ヴァーニッシを掛けて、礼にかなわぬ靴の裏を、ともすれば危からしめんと、てらてらする。そのほかに洋卓テエブルがある。チッペンデールとヌーヴォーを取り合せたような組み方に、思い切った今様いまよう華奢きゃしゃな昔に忍ばして、へやの真中を占領している。周囲まわりに並ぶ四脚の椅子は無論同式どうしき構造つくりである。繻子しゅすの模様もついとは思うが、日除ひよけ白蔽しろおいに、卸す腰も、もたれる背も、ただ心安しと気を楽に落ちつけるばかりで、目の保養にはならぬ。書棚は壁に片寄せて、けんの高さを九尺つらねて戸口まで続く。組めば重ね、離せば一段の棚を喜んで、亡き父が西洋むこうから取り寄せたものである。いっぱいに並べた書物が紺に、黄に、いろいろに、ゆかしき光を闘わすなかに花文字の、角文字かくもじの金は、縦にも横にも奇麗である。小野さんは欽吾きんごの書斎を見るたびにうらやましいと思わぬ事はない。欽吾も無論きらってはおらぬ。もとは父の居間であった。仕切りの戸を一つ明けるとすぐ応接間へ抜ける。残る一つを出ると内廊下から日本座敷へ続く。洋風の二間は、父が手狭てぜま住居すまいを、二十世紀に取りひろげた便利の結果である。趣味にかなうと云わんよりは、むしろ実用にせまられて、時好の程度におのれを委却いきゃくした建築である。さほどにうれしい部屋ではない。けれども小野さんは非常に羨ましがっている。こう云う書斎に這入はいって、好きな書物を、好きな時に読んで、きた時分に、好きな人と好きな話をしたら極楽ごくらくだろうと思う。博士論文はすぐ書いて見せる。博士論文を書いたあとは後代を驚ろかすような大著述をして見せる。定めて愉快だろう。しかし今のような下宿住居で、隣り近所の乱調子に頭をき廻されるようではとうてい駄目である。今のように過去に追窮されて、義理や人情のごたごたに、日夜共心を使っていてはとうてい駄目である。自慢ではないが自分は立派な頭脳を持っている。立派な頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。天職を尽すためには、尽し得るだけの条件がいる。こう云う書斎はその条件の一つである。――小野さんはこう云う書斎に這入はいりたくてたまらない。高等学校こそ違え、大学では甲野こうのさんも小野さんも同年であった。哲学と純文学は科が異なるから、小野さんは甲野さんの学力を知りようがない。ただ「哲世界と実世界」と云う論文を出して卒業したと聞くばかりである。「哲世界と実世界」の価値は、読まぬ身に分るはずがないが、とにかく甲野さんは時計をちょうだいしておらん。自分はちょうだいしておる。恩賜の時計は時を計るのみならず、脳の善悪よしあしをも計る。未来の進歩と、学界の成功をも計る。特典にれた甲野さんは大した人間ではないにきまっている。その上卒業してからこれと云う研究もしないようだ。深い考を内にたくわえているかも知れぬが、蓄えているならもう出すはずである。出さぬは蓄がない証拠と見て差支さしつかえない。どうしても自分は甲野さんより有益な材である。その有益な材を抱いて奔走に、六十円に、月々を衣食するに、甲野さんは、手をこまぬいて、徒然とぜんの日を退屈そうに暮らしている。この書斎を甲野さんが占領するのはもったいない。自分が甲野の身分でこの部屋の主人あるじとなる事が出来るなら、この二年の間に相応の仕事はしているものを、親譲りの貧乏に、れきに伏す天の不公平を、やむを得ず、今日きょうまで忍んで来た。一陽はさちなき人の上にもきたかえると聞く。願くは願くはと小野さんは日頃に念じていた。――知らぬ甲野さんはぽつねんとして机に向っている。正面の窓を明けたらば、石一級の歩に過ぎずして、広い芝生しばふを一目に見渡すのみか、ほがらかな気が地つづきを、すぐ部屋のなかに這入るものを、甲野さんは締め切ったまま、ひそりと立てこもっている。右手の小窓は、硝子ガラスおろした上に、左右から垂れかかる窓掛になかおおわれている。通う光線ひかりかすかにゆかの上に落つる。窓掛は海老茶えびちゃの毛織に浮出しの花模様をほこりのままに、二十日ほどは動いた事がないようである。色もだいぶめた。部屋と調和のない装飾も、過渡時代の日本には当然として立派に通用する。窓掛の隙間すきまから硝子へ顔をしつけて、外をのぞくと扇骨木かなめ植込うえごみを通して池が見える。棒縞ぼうじまの間から横へ抜けた波模様のように、途切れ途切れに見える。池の筋向すじむこう藤尾ふじおの座敷になる。甲野さんは植込も見ず、池も見ず、芝生も見ず、机にってじっとしている。き残された去年の石炭が、煖炉のなかにただ一個冷やかに春を観ずるていである。やがて、かたりと書物を置きえる音がする。甲野さんは手垢てあかの着いた、例の日記帳を取り出して、け始める。「多くの人はわれに対して悪を施さんと欲す。同時に吾の、彼らを目して凶徒となすを許さず。またその凶暴に抗するを許さず。いわく。命に服せざれば汝をにくまんと」細字さいじに書き終った甲野さんは、そのあと片仮名かたかなでレオパルジと入れた。日記を右に片寄せる。置き易えた書物を再びもとの座に直して、静かに読み始める。細い青貝の軸を着けた洋筆ペンがころころと机をすべってゆかに落ちた。ぽたりと黒いものが足の下に出来る。甲野さんは両手を机のかどに突張って、心持腰をうしろへ浮かしたが、眼を落してまず黒いしたたりを眺めた。丸い輪に墨が余ってぱっと四方に飛んでいる。青貝は寝返りを打って、薄暗いなかに冷たそうな長い光を放つ。甲野さんは椅子をずらす。手捜てさぐりに取り上げた洋筆軸ペンじくは父が西洋から買って来てくれた昔土産むかしみやげである。甲野さんは、指先に軸をつまんだ手を裏返して、拾った物を、指の谷から滑らしててのひらのなかに落し込む。掌のむきを上下にえると、長い軸は、ころころと前へ行きうしろへ戻る。動くたびにきらきら光る。小さい記念かたみである。洋筆軸を転がしながら、書物の続きを読む。ページをはぐるとこんな事が、かいてある。「剣客の剣を舞わすに、相若あいしくときは剣術は無術と同じ。彼、これを一籌いっちゅうの末に制する事あたわざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。人をあざむくもまたこれに類す。欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐きっさに富むとき、二人ににんの位地は、誠実をもって相対するとごうも異なるところなきに至る。この故に偽﹅と悪﹅とは優﹅勢﹅を引いて援護となすにあらざるよりは、不足偽ふそくぎ不足悪に出会しゅっかいするにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事かたしとす。第三の場合はもとよりまれなり。第二もまた多からず。凶漢は敗徳において匹敵ひってきするをもって常態とすればなり。相賊あいぞくしてついに達するあたわず、あるいは千辛万苦して始めて達し得べきものも、ただ互に善を行い徳を施こして容易にいたり得べきを思えば、悲しむべし」甲野さんはまた日記を取り上げた。青貝の洋筆軸ペンじくを、ぽとりと墨壺すみつぼの底に落す。落したまま容易に上げないと思うと、ついには手を放した。レオパルジは開いたまま、黄な表紙の日記をページの上に載せる。両足を踏張ふんばって、組み合せた手を、頸根くびねにうんと椅子の背にもたれかかる。仰向あおむく途端に父の半身画と顔を見合わした。余り大きくはない。半身とは云え胴衣チョッキボタンが二つ見えるだけである。服はフロックと思われるが、背景の暗いうちに吸い取られて、明らかなのは、わずかにるる白襯衣しろシャツの色と、額の広い顔だけである。名のある人の筆になると云う。三年ぜん帰朝の節、父はこの一面を携えて、はるかなる海を横浜の埠頭ふとうのぼった。それより以後は、欽吾が仰ぐたびに壁間にかかっている。仰がぬ時も壁間から欽吾を見下みおろしている。筆をるときも、頬杖ほおづえを突くときも、仮寝うたたねの頭を机に支うるときも――絶えず見下している。欽吾がいない時ですら、画布カンヴァスの人は、常に書斎を見下している。見下すだけあって活きている。眼玉に締りがある。それも丹念に塗りたくって、根気任せにり上げた眼玉ではない。一刷毛ひとはけに輪廓をえがいて、眉とまつげの間に自然の影が出来る。下瞼したまぶた垂味たるみが見える。取る年が集って目尻を引張る波足が浮く。その中にひとみきている。動かないでしかも活きている刹那さつなの表情を、そのまま画布に落した手腕は、会心の機を早速さそくに捕えた非凡のと云わねばならぬ。甲野さんはこの眼を見るたびに活きてるなと思う。想界に一瀾いちらんを点ずれば、千瀾追うて至る。瀾々らんらん相擁あいようして思索のくにに、吾を忘るるとき、懊悩おうのうこうべを上げて、この眼にはたりとえば、あっ、ったなと思う。ある時はおやいたかと驚ろく事さえある。――甲野さんがレオパルジから眼を放して、万事を椅子の背に託した時は、常よりもはげしくおやいたなと驚ろいた。思出おもいでの種に、き人を忍ぶ片身かたみとは、思い出す便たよりを与えながら、亡き人をもとに返さぬ無惨むざんなものである。肌に離さぬ数糸の髪を、いだいては、泣いては、月日はただ先へとめぐるのみの浮世である。片身は焼くに限る。父が死んでからの甲野さんは、何となくこの画を見るのがいやになった。離れても別状がないと落つきの根城をえて、咫尺しせき慈顔じがん髣髴ほうふつするは、離れたる親を、記憶の紙にあぶり出すのみか、える日を春に待てとのうらにもなる。が、逢おうと思った本人はもう死んでしまった。活きているものはただ眼玉だけである。それすら活きているのみでごうも動かない。――甲野さんは茫然ぼうぜんとして、眼玉をながめながら考えている。親父も気の毒な事をした。もう少し生きれば生きられる年だのに。ひげもまるで白くはない。血色もみずみずしている。死ぬ気は無論なかったろう。気の毒な事をした。どうせ死ぬなら、日本へ帰ってから死んでくれれば好いのに。言い置いて行きたい事も定めてあったろう。聞きたい事、話したい事もたくさんあった。惜しい事をした。好い年をして三遍も四遍も外国へやられて、しかも任地で急病にかかって頓死とんししてしまった。……活きている眼は、壁の上から甲野さんを見詰めている。甲野さんは椅子いすり掛ったまま、壁の上を見詰めている。二人の眼は見るたびにぴたりと合う。じっとして動かずに、合わしたままの秒を重ねて分に至ると、向うのひとみが何となく働らいて来た。せい閑所かんしょに転ずる気紛きまぐれの働ではない。打ち守る光が次第に強くなって、眼を抜けた魂がじりじりと一直線に甲野さんにせまって来る。甲野さんはおやと、首をうごかした。髪の毛が、椅子の背を離れて二寸ばかり前へ出た時、もう魂はいなくなった。いつのにやら、眼のなかへ引き返したと見える。一枚の額は依然として一枚の額に過ぎない。甲野さんは再び黒い頭を椅子の肩に投げかけた。馬鹿馬鹿しい。が近頃時々こんな事がある。身体からだが衰弱したせいか、頭脳あたまの具合が悪いからだろう。それにしてもこの画は厭だ。なまじい親父おやじに似ているだけがなお気掛りである。死んだものに心を残したって始まらないのは知れている。ところへ死んだものを鼻の先へぶら下げて思え思えと催促されるのは、木刀を突き付けて、さあ腹を切れとせびられるようなものだ。うるさいのみか不快になる。それもただの場合ならともかくである。親父の事を思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とをむさぼるだけで、頭はほかの国に、母もいもとも忘れればこそ、こう生きてもいる。実世界の地面から、かかとを上げる事をし得ぬ利害の人の眼に見たら、定めし馬鹿の骨頂だろう。自分は自分にすべてをてる覚悟があるにもせよ、このていたらくを親父には見せたくない。親父はただの人である。草葉の蔭で親父が見ていたら、定めて不肖ふしょうの子と思うだろう。不肖の子は親父の事を思い出したくない。思い出せば気の毒になる。――どうもこの画はいかん。折があったら蔵のなかへでも片づけてしまおう。……十人は十人の因果いんがを持つ。あつものりてなますを吹くは、しゅを守って兎を待つと、等しく一様の大律たいりつに支配せらる。白日天にちゅうして万戸に午砲のいいかしぐとき、蹠下しょかの民は褥裏じょくり夜半やはん太平のはかりごと熟す。甲野さんがただ一人書斎で考えている間に、母と藤尾ふじおは日本間の方で小声に話している。「じゃあ、まだ話さないんですね」と藤尾が云う。茶の勝った節糸ふしいとあわせは存外地味じみな代りに、長く明けたそでうしろから紅絹もみの裏が婀娜あだな色を一筋ひとすじなまめかす。帯に代赭たいしゃ古代模様こだいもようが見える。織物の名は分らぬ。「欽吾にかい」と母が聞き直す。これもくすんだ縞物しまものを、年相応に着こなして、腹合せの黒だけが目に着くほどに締めている。「ええ」と応じた藤尾は、「兄さんは、まだ知らないんでしょう」と念を押す。「まだ話さないよ」と云ったぎり、母は落ちついている。座布団ざぶとんふちまくって、「おや、煙管きせるはどうしたろう」と云う。煙管は火鉢の向う側にある。長い羅宇らおを、ぎゃくに、親指のまたに挟んで、「はい」と手取形の鉄瓶てつびんの上から渡す。「話したら何とか云うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。「云えば御廃およしかい」と母は皮肉に云い切ったまま、下を向いて、雁首がんくびへ雲井を詰める。娘は答えなかった。答えをすれば弱くなる。もっとも強い返事をしようと思うときは黙っているに限る。無言は黄金おうごんである。五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙と共に口をいた。「話はいつでも出来るよ。話すのが好ければわたしが話して上げる。なに相談するがものはない。こう云う風にするつもりだからと云えば、それぎりの事だよ」「そりゃ私だって、自分の考がきまった以上は、兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども……」「何にも云える人じゃないよ。相談相手に出来るくらいなら、初手しょてからこうしないでもほかにいくらも遣口やりくちはあらあね」「でも兄さんの心持一つで、こっちが困るようになるんだから」「そうさ。それさえなければ、話も何もりゃしないんだが。どうも表向うちの相続人だから、あの人がうんと云ってくれないと、こっちが路頭に迷うようになるばかりだからね」「その癖、何か話すたんびに、財産はみんな御前にやるから、そのつもりでいるがいいって云うんですがね」「云うだけじゃ仕方がないじゃないか」「まさか催促する訳にも行かないでしょう」「なにくれるものなら、催促してもらったって、構わないんだが――ただ世間体せけんていがわるいからね。いくらあの人が学者でもこっちからそうは切り出しにくいよ」「だから、話したらいじゃありませんか」「何を」「何をって、あの事を」「小野さんの事かい」「ええ」と藤尾は明暸めいりょうに答えた。「話しても好いよ。どうせいつか話さなければならないんだから」「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産をくれるつもりなら、くれるでしょうし。幾らか分けてくれる気なら、分けるでしょうし、家が厭ならどこへでも行くでしょうし」「だが、御母おっかさんの口から、御前の世話にはなりたくないから藤尾をどうかしてくれとも云い悪いからね」「だってむこうで世話をするのが厭だって云うんじゃありませんか。世話は出来ない、財産はやらない。それじゃ御母おっかさんをどうするつもりなんです」「どうするつもりも何も有りゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」「少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね」母は黙っている。「この間金時計を宗近むねちかにやれって云った時でも……」「小野さんに上げると御云いのかい」「小野さんにとは云わないけれども。はじめさんに上げるとは云わなかったわ」「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、面倒を見て御貰おもらいなさいと云うかと思うと、やっぱり御前を一にやりたいんだよ。だって一は一人息子じゃないか。養子なんぞに来られるものかね」「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭のかたを見る。夕暮を促がすとのみ眺められた浅葱桜あさぎざくらは、ことごとくこずえを辞して、光る茶色の嫩葉わかばさえ吹き出している。左に茂る三四本の扇骨木かなめの丸く刈り込まれた間から、書斎の窓が少し見える。思うさま片寄って枝をした桜の幹を、右へ離れると池になる。池が尽きれば張り出した自分の座敷である。静かな庭を一目見廻わした藤尾は再び横顔を返して、母を真向まむきに見る。母はさっきから藤尾の方を向いたなり眼を放さない。二人が顔を合せた時、何を思ったか、藤尾は美くしい片頬かたほをむずつかせた。笑とまで片づかぬものは、明かに浮ばぬ先に自然じねんと消える。「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」「でも断って下すったんでしょう」「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の阿爺おとっさんに逢って、よく理由わけは話して来たのさ。――帰ってから御前にも話した通り」「それは覚えていますけれども、何だか判然はっきりしないようだったから」「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾がいやだと申しますから、ひらに御断わり申しますとは云えないからね」「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから露骨むきだしでも構わないと御思おおもいかも知れないが、世の中はそうは行かないよ。同じ断わるにしても、そこにはね。やっぱりふたもあるように云わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから」「何とか云って断ったのね」「欽吾がどうあっても嫁をもらうと云ってくれません。私も取る年で心細うございますから」と一と息にくだして来る。ちょっと御茶を呑む。「年を取って心細いから」「心細いから、欽吾あれがあのまま押し通す料簡りょうけんなら、藤尾に養子でもして掛かるよりほかに致し方がございません。するとはじめさんは大事な宗近家の御相続人だから私共へいらしっていただく訳にも行かず、また藤尾を差し上げる訳にも参らなくなりますから……」「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ癇癪かんしゃくの八の字を寄せた。八の字はすぐとれる。やがて云う。「貰うなら、貰うで、糸子いとこでも何でも勝手な人を貰うがいいやね。こっちはこっちで早く小野さんを入れてしまうから」「でも宗近の方は」「いいよ。そう心配しないでも」地烈太じれったそうに云い切った後で、「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」「だって、あの男に及第が出来ますものかね。考えて御覧な。――もし及第なすったら藤尾を差上さしあげましょうと約束したって大丈夫だよ」「そう云ったの」「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」藤尾は笑ながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。「じゃ宗近の御叔父おじさんはたしかに断わられたと思ってるんですね」「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」「やっぱりおんなじですからさ。この間博覧会へ行ったときも相変らずですもの」「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」「今日で」と考える。一昨日おととい一昨々日さきおとといの晩です」と云う。「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依るとなぞが通じなかったかも知れないね」とさも歯痒はがゆそうである。「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」「今、書斎にいるでしょう」母は立ち上がった。椽側えんがわへ出た足を一歩ひとあしあとへ返して、小声に、「御前、一にうだろう」こごみながら云う。「逢うかも知れません」「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。明日あしただったかね」「ええ、明日の約束です」「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」「ホホホホ」母は書斎に向う。からりとしたえんを通り越して、奇麗な木理もくめを一面にぎ出してある西洋間の戸を半分明けると、立て切った中は暗い。円鈕ノッブを前に押しながら、開く戸に身を任せて、音なき両足を寄木よせきゆかに落した時、釘舌ボールトのかちゃりとね返る音がする。窓掛に春をさえぎる書斎は、薄暗く二人を、人の世から仕切った。「暗い事」と云いながら、母は真中の洋卓テエブルまで来て立ち留まる。椅子いすの背の上に首だけ見えた欽吾の後姿が、声のした方へ、じいっと廻り込むと、なぞえに引いた眉の切れが三が一ほどあらわれた。黒い片髭かたひげが上唇を沿うて、自然じねんと下りて来て、尽んとするかどから、急にき返す。口は結んでいる。同時に黒いひとみは眼尻までって来た。母と子はこの姿勢のうちに互を認識した。「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて、「窓を明けましょうか」ゆっくり聞いた。「どうでも――おっかさんはどうでも構わないが、ただ御前が欝陶うっとうしいだろうと思ってさ」無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。うながされたる母はまず椅子に着く。欽吾も腰をおろした。「どうだね、具合は」「ありがとう」「ちっとは好い方かね」「ええ――まあ――」生返事なまへんじをした時、甲野さんは背を引いて腕を組んだ。同時に洋卓の下で、右足の甲の上へ左の外踝そとくろぶしを乗せる。母の眼からは、ただゆきの縮んだ卵色の襯衣シャツの袖が正面に見える。身体からだを丈夫にしてくれないとね、母さんも心配だから……」句の切れぬうちに、甲野さんは自分のあご咽喉のどへ押しつけて、洋卓の下を覗き込んだ。黒い足袋が二つ重なっている。母の足は見えない。母は出直した。「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」甲野さんはふと眼を上げた。母は急に言葉を移す。「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」「そうですか」「ホホホホ、そうですかって、他人ひとの事のように。――何だか顔色が丈夫丈夫して来たじゃないか。日に焼けたせいかね」「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛の深いひだが左右に切れる間から、扇骨木かなめの若葉が燃えるように硝子ガラスうつる。「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、からっとして、書斎より心持が好いから。たまには、はじめのようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変って面白いものだよ」「ありがとう」「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。甲野さんはまぶしそうな眼を扇骨木から放した。「扇骨木が大変奇麗きれいを吹きましたね」「見事だね。かえってなまじいな花よりも、ござんすよ。ここからは、たった一本しっきゃ見えないね。むこうへ廻ると刈り込んだのがまあるそろって、そりゃ奇麗」「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」「ああ、御覧かい」甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。母は云う。――「それにね。近頃は陽気のせいか池の緋鯉ひごいが、まことによくはねるんで……ここから聞えますかい」「鯉の跳る音がですか」「ああ」「いいえ」「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。おっかさんの部屋からでも聞えないくらいだから。この間藤尾に母さんは耳が悪くなったって、さんざん笑われたのさ。――もっとも、もう耳も悪くなって好い年だから仕方がないけれども」「藤尾はいますか」「いるよ。もう小野さんが来て稽古けいこをする時分だろう。――何か用でもあるかい」「いえ、用は別にありません」「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気にさわる事もあろうが、まあ我慢して、本当の妹だと思って、面倒を見てやって下さい」甲野さんは腕組のまま、じっと、深いひとみを母の上にえた。母の眼はなぜか洋卓テエブルの上に落ちている。「世話はする気です」しずかに云う。「御前がそう云ってくれるとわたしもまことに安心です」「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」「ですが……」で言葉は切れた。母はあとを待つ。欽吾は腕組を解いて、椅子にる背を前に、胸を洋卓テエブルかどへ着けるほど母に近づいた。「ですが、おっかさん。藤尾の方では世話になる気がありません」「そんな事が」と今度は母の方が身体からだを椅子の背に引いた。甲野さんは一筋の眉さえ動かさない。同じような低い声を、静かにつなげて行く。「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子をせまらして、藤尾あれも実は可哀想かわいそうだからね。そう云わずに、どうかしてやって下さい」と云う。甲野さんはひじを立てて、手の平でひたいを抑えた。「だって見縊みくびられているんだから、世話を焼けば喧嘩けんかになるばかりです」「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」けしはしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。「そんな事があっては第一わたしが済まない」と次に添えた時はもう常に復していた。甲野さんは黙って肘を立てている。「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」甲野さんは依然として額に加えた手の下から母をながめている。「もし不都合があったら、私からとくと云って聞かせるから、遠慮しないで、何でも話しておくれ。御互のなかで気不味きまずい事があっちゃあ面白くないから」額に加えた五本の指は、節長にほっそりして、爪の形さえ女のように華奢きゃしゃに出来ている。「藤尾はたしか二十四になったんですね」「明けてになったのさ」「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁ともむことも判然した答をしない。母は云う。「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」「何ですか」右のまゆはやはり手の下に隠れている。眼のいろは深い。けれども鋭い点はどこにも見えぬ。「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」「何をですか」「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、おっかさんが困るからね」甲野さんは手の甲の影で片頬かたほに笑った。さみしい笑である。身体からだが悪いと御云いだけれども、御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります」「そりゃ、有るでしょう」「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。洋卓テエブルの上には一枚の罫紙けいしに鉛筆が添えてせてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三四行の英語が書いてある。読み掛けて気がついた。昨日きのう読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そのままに捨てて置いた紙片かみきれである。甲野さんは罫紙を洋卓の上に伏せた。母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆をって紙の上へ烏と云う字を書いた。「どうだろうね」烏と云う字が鳥になった。「そうしてくれると好いがね」鳥と云う字がげきの字になった。その下に舌の字が付いた。そうして顔を上げた。云う。「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」云い終った母は悄然しょうぜんとして下を向いた。同時にせがれの紙の上に三角が出来た。三角が三つ重なってうろこの紋になる。おっかさん。うちは藤尾にやりますよ」「それじゃ御前……」けしにかかる。「財産も藤尾にやります。わたしは何にもいらない」「それじゃ私達が困るばかりだあね」「困りますか」と落ちついて云った。母子おやこはちょっと眼を見合せる。「困りますかって。――私が、死んだ阿父おとっさんに済まないじゃないか」「そうですか。じゃどうすれば好いんです」飴色あめいろに塗った鉛筆を洋卓の上にはたりとほうり出した。「どうすれば好いか、どうせおっかさんのような無学なものには分らないが、無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ」いやなんですか」「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」「有りません」わたしも無いつもりだ。御前がそう云ってくれるたんびに、御礼は始終しょっちゅう云ってるじゃないか」「御礼は始終聞いています」母は転がった鉛筆を取り上げて、とがった先を見た。丸い護謨ゴムの尻を見た。心のうちで手のつけようのない人だと思った。ややあって護謨の尻をきゅうっと洋卓テエブルの上へ引っ張りながら云う。「じゃ、どうあってもうちぐ気はないんだね」「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」「甲野の家は襲いでも、おっかさんの世話はしてくれないんだね」甲野さんは返事をする前に、ひとみを長い眼の真中に据えてつくづくと母の顔を眺めた。やがて、「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」慇懃いんぎんに云う。「それほどに御云いなら、仕方がない」母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」「ええ」「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」「小野をですか」と云ったぎり、黙った。「いけまいか」「いけない事もないでしょう」ゆっくり云う。「よければ、そうきめようと思うが……」「好いでしょう」「好いかい」「ええ」「それでようやく安心した」甲野さんはじっと眼をらして正面に何物をか見詰めている。あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。「それでようやく――御前どうかおしかい」おっかさん、藤尾は承知なんでしょうね」「無論知っているよ。なぜ」甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがてまたたきを一つすると共に、眼は急に近くなった。「宗近はいけないんですか」と聞く。はじめかい。本来なら一が一番好いんだけれども。――おとっさんと宗近とは、ああ云う間柄ではあるしね」「約束でもありゃしなかったですか」「約束と云うほどの事はなかったよ」「何だかおとっさんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが」「時計?」と母は首をかたげた。「父さんの金時計です。柘榴石ガーネットの着いている」「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。はじめはまだあてにしているようです」「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」「時計は今藤尾があずかっているから、わたしから、よく、そう云って置こう」「時計もだが、藤尾の事をおもに云ってるんです」「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」「そう云うと私が何だか御前の気にさからうようで悪いけれども、――そんな約束はまるでおぼえがないんだもの」「はああ。じゃ無いんでしょう」「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」「そりゃ、構わないです」「それに一は長男だから、どうしても宗近の家をがなくっちゃならずね」「藤尾へは養子をするつもりなんですか」「したくはないが、御前がおっかさんの云う事を聞いておくれでないから……」「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」「財産は――御前私の料簡りょうけんを間違えて取っておくれだと困るが――おっかさんの腹の中には財産の事なんかまるでありゃしないよ。そりゃ割って見せたいくらいに奇麗きれいなつもりだがね。そうは見えないか知ら」「見えます」と甲野さんが云った。きわめて真面目まじめな調子である。母にさえ嘲弄ちょうろうの意味には受取れなかった。「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、あとが困るんでね」「なるほど」「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」「母かさん、小野をよく知っていますか」「知ってるつもりです。叮嚀ていねいで、親切で、学問がよく出来て立派な人じゃないか。――なぜ」「そんなら好いです」「そう素気そっけなく云わずと、何かかんがえがあるなら聞かしておくれな。せっかく相談に来たんだから」しばらく罫紙けいしの上の楽書らくがきを見詰めていた甲野さんは眼を上げると共に穏かに云い切った。「宗近の方が小野よりおっかさんを大事にします」「そりゃ」とたちまち出る。あとから静かに云う。「そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいが、ほかの事と違って、こればかりは親や兄の自由にはかないもんだからね」「藤尾が是非にと云うんですか」「え、まあ――是非とも云うまいが」「そりゃわたしも知っている。知ってるんだが。――藤尾はいますか」「呼びましょう」母は立った。薄紅色ときいろに深く唐草からくさを散らした壁紙に、立ちながら、手頃に届く電鈴ベルを、白きただ中に押すと、座に返るほどなきにこたえがある。入口の戸が五寸ばかりそっとく、ところを振り返った母が、「藤尾に用があるからちょいと」と云う。そっと明いた戸はそっと締る。母と子は洋卓テエブルを隔てて差し向う。互に無言である。欽吾はまた鉛筆を取り上げた。うろこ周囲まわりれ擦れの大きさにまるく。円と鱗の間を塗る。黒い線を一本一本叮嚀ていねいに並行させて行く。母は所在なさに、せがれの図案を慇懃いんぎんながめている。二人の心は無論わからぬ。ただ上部うわべだけはいかにも静である。もし手足しゅそくの挙止が、内面の消息を形而下けいじかに運びきたる記号となり得るならば、この二人ほどに長閑のどか母子おやこは容易に見出し得まい。退屈の刻を、数十すじゅうの線にかくして、行儀よく三つ鱗の外部そとがわを塗り潰す子と、尋常に手を膝の上に重ねて、一劃ごとに黒くなるまるの中を、端然たんねんと打ち守る母とは、咸雍かんようの母子である。和怡わいの母子である。さしはさむ洋卓に、さえぎらるる胸と胸をむかい合せて、とざす窓掛のうちに、世を、人を、争を、忘れたる姿である。き人の肖像は例にって、壁の上から、閑静なるこの母子を照らしている。丹念に引く線はようやくしげくなる。黒い部分はしだいに増す。残るはただ右手に当る弓形ゆみなりの一ヵ所となった時、がちゃりと釘舌ボールトねじる音がして、待ち設けた藤尾の姿が入口に現われた。白い姿を春に託す。深い背景のうちに肩から上が浮いて見える。甲野さんの鉛筆は引きかけた線のなかばでぴたりと留った。同時に藤尾の顔は背景を抜け出して来る。あぶり出しはどうして」と言いながら、母の隣まで来て、横合から腰をおろす。卸し終った時、また、「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりに出来つつある。「兄さん、何か御用」「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなり何とも云わない。藤尾は再び母の方を見た。見ると共に薄笑うすわらいの影が奇麗きれいな頬にさす。兄はやっと口を切る。「藤尾、このうちと、わたしおとっさんから受けいだ財産はみんな御前にやるよ」「いつ」「今日からやる。――その代り、おっかさんの世話は御前がしなければいけない」「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。「御前宗近へ行く気はないか」「ええ」「ない?どうしてもいやか」「厭です」「そうか。――そんなに小野が好いのか」藤尾はきっとなる。「それを聞いて何になさる」椅子いすの上に背をして云う。「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、「そう」とさも軽蔑けいべつしたように落す。母は始めて口を出す。「兄さんの考では、小野さんよりはじめの方がよかろうと云う話なんだがね」「兄さんは兄さん。私は私です」「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」「知っている」閑静しずかに云う。「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」「そうか」「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値ねうちは分りません。けっして分りません。一さんをめる人に小野さんの価値が分る訳がありません。「じゃ小野にするさ」「無論します」云いてて紫のリボンは戸口の方へうごいた。ほそい手に円鈕ノッブをぐるりと回すやいなや藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。

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