十八
小夜子は婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて出雲焼の皿に移すと、真中にある青い鳳凰の模様が和製のビスケットで隠れた。黄色な縁はだいぶ残っている。揃えて渡す二本の竹箸を、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりと椽に逼ってくる。「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を後へ引くついでに、「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。小夜子は淋しい笑顔を俯向けて、今度は答さえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子を眺めている。これからこの女の結婚問題を壊すんだなと思いながら平気に眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や生涯の幸福についてはあまり同情を表しておらん。ただ頼まれたから頼まれたなりに事を運べば好いものと心得ている。そうしてそれがもっとも法学士的で、法学士的はもっとも実際的で、実際的は最上の方法だと心得ている。浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思った事のない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に阻害せらるるものと信じている。想像力を待って、始めて、全たき人性に戻らざる好処置が、知慧分別の純作用以外に活きてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いた事がない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の運命が、夫子の一言でどう変化するだろうかとは浅井君の夢にだも考え得ざる問題である。浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、孤堂先生は変な咳を二つ三つ塞いた。小夜子は心元なく父の方を向く。「御薬はもう上がったんですか」「朝の分はもう飲んだよ」「御寒い事はござんせんか」「寒くはないが、少し……」先生は右の手頸へ左の指を三本懸けた。小夜子は浅井のいる事も忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見詰めている。先生の顔は髯と共に日ごとに細長く瘠せこけて来る。「どうですか」と気遣わし気に聞く。「少し、早いようだ。やっぱり熱が除れない」と額に少し皺が寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立を野中に避けて、頼と思う一本杉をありがたしと梢を見れば稲妻がさす。怖いと云うよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る疳癪なら、機嫌の取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽しようがない。かりそめの風邪と、当人も思い、自分も苦にしなかった昨日今日の咳を、蔭へ廻って聞いて見ると、医者は性質が善くないと云う。二三日で熱が退かないと云って焦慮るような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。云わねば気で通す。その上疳を起す。この調子で進んで行くと、一年の後には神経が赤裸になって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――昨夜小夜子は眼を合せなかった。「羽織でも召していらしったら好いでしょう」孤堂先生は返事をせずに、「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。「どうかなすったんですか」と浅井君が無雑作に尋ねた。「いえ、ちっと風邪を引いてね」「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も頓着もなかった。病気の源因と、経過と、容体を精しく聞いて貰おうと思っていた先生は当が外れた。「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。「はい、ただ今」と小さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて、「はあ、そうかい」と気のない返事をした。浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。孤堂先生の窪んだ眼は一度に鋭どくなった。やがて鋭どいものが一面に広がって顔中苦々しくなる。「廃した方が好えですな」置き失くした験温器を捜がしていた、次の間の小夜子は、長火鉢の二番目の抽出を二寸ほど抜いたまま、はたりと引く手を留めた。先生の苦々しい顔は一層こまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想し得ない。「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。「君は小野の悪口を云いに来たのかね」「ハハハハ先生本当ですよ」浅井君は妙なところで高笑をいた。「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どく跳ねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君は始めて驚ろいた。しばらく黙っている。「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた障子に影がさす。腰板の外から細い白木の筒がそっと出る。畳の上で受取った先生はぽんと云わして筒を抜いた。取り出した験温器を日に翳して二三度やけに振りながら、「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と度盛を透して見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこの間に元気を回復した。「実は頼まれたんです」「頼まれた?誰に」「小野に頼まれたんです」「小野に頼まれた?」先生は腋の下へ験温器を持って行く事を忘れた。茫然としている。「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」「ふうん。もっと精しく話すがいい」「二三日中に是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」襖の蔭で小夜子が洟をかんだ。つつましき音ではあるが、一重隔ててすぐ向にいる人のそれと受け取れる。鴨居に近く聞えたのは、襖越に立っているらしい。浅井君の耳にはどんな感じを与えたか知らぬ。「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」「よし分った。理由はそれぎりかい」「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」「月々金でもくれると云うのかい」「そうです」「おい小夜や、ちょっと御出。小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。小夜子は襖の蔭に蹲踞ったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。「君は妻君があるかい」「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は玩具じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物だよ。私から云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金を貢いでやる?貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想だから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」小夜子は襖の蔭で啜り泣をしている。先生はしきりに咳く。浅井君は面喰った。こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。瞹眛な約束をやめてくれと云うのもさほど不義理とは受取れない。世話をして貰いっ放しでは不都合かも知れないが、して貰っただけの事を物質的に返すと云い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒り出す。――そこで浅井君は面喰った。「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に逢って話して見ますから」と云った。これは本気の沙汰である。しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、「君は結婚を極めて容易事のように考えているが、そんなものじゃない」と口惜そうに云う。先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は便宜によって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけで差支ないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」浅井君はやっぱり黙っている。「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は明日からどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来夫だと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家へ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の生涯を誤まらして、それで好い心持なのか」先生の窪んだ眼が煮染んで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな精しい事情は知らんのですから」「いや、話してくれないでも好い。厭だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家に訳を話すが好い」「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」「小夜の考ぐらい小野には分っているはずださ」と先生は平手で頬を打つように、ぴしゃりと云った。「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」襖の向側で、袖らしいものが唐紙の裾にあたる音がした。「そう返事をして差支ないだろうね」答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に埋めた声がした。「先生もう一遍小野に話しましょう」「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」「とにかく……そう小野に云いましょう」浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は、「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て蕎麦屋の行灯を右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。突然電車に乗った浅井君は約一時間余の後、ぶらりと宗近家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。五十分ほど後れて、玄関の松の根際に梶棒を上げた一挺は、黒い幌を卸したまま、甲野の屋敷を指して馳ける。小説はこの三挺の使命を順次に述べなければならぬ。宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、車輪の音を留めた時、小野さんはちょうど午飯を済ましたばかりである。膳が出ている。飯櫃も引かれずにある。主人公は机の前へ座を移して、口から吹く濃き煙を眺めながら考えている。今日は藤尾と大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかし是非行かねばならぬとなると、何となく気が咎める。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかも知れぬ。賽は固より自分で投げた。一六の目は明かに出た。ルビコンは渡らねばならぬ。しかし事もなげに河を横切った該撒は英雄である。通例の人はいざと云う間際になってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ず廃せばよかったと後悔する。乗り掛けた船に片足を入れた時、船頭が出ますよと棹を取り直すと、待ってくれと云いたくなる。誰か陸から来て引っ張ってくれれば好いと思う。乗り掛けたばかりならまだ陸へ戻る機会があるからである。約束も履行せんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命と云う場合ではない。メレジスの小説にこんな話がある。――ある男とある女が諜し合せて、停車場で落ち合う手筈をする。手筈が順に行って、汽笛がひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の運命がいざと云う間際まで逼った時女はついに停車場へ来なかった。男は待ち耄の顔を箱馬車の中に入れて、空しく家へ帰って来た。あとで聞くと朋友の誰彼が、女を抑留して、わざと約束の期を誤まらしたのだと云う。――藤尾と約束をした小野さんは、こんな風に約束を破る事が出来たら、かえって仕合かも知れぬと思いつつ煙草の煙を眺めている。それに浅井の返事がまだ来ない。諾と云えばどっちへ転んでも幸である。否と聞くならば、退っ引きならぬ瀬戸際まであらかじめ押して置いて、振り返ってから、臨機応変に難関を切り抜けて行くつもりの計画だから、一刻も早く大森へ行ってしまえば済む。否と云う返事を待つ必要は無論ない。ないが、決行する間際になると気掛りになる。頭で拵え上げた計画を人情が崩しにかかる。想像力が実行させぬように引き戻す。小野さんは詩人だけにもっとも想像力に富んでいる。想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とを眼のあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に延長して想像の鏡に思い浮べて眺めると二た通になる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である、豊である、ことごとく幸福である。鏡の面から自分の影を拭き消すと闇になる、暮になる。すべてが悲惨になる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、小さき竈に立つべき煙を予想しながら薪を奪うと一般である。忍びない。人は眼を閉って苦い物を呑む。こんな絡んだ縁をふつりと切るのに想像の眼を開いていては出来ぬ。そこで小野さんは眼の閉れた浅井君を頼んだ。頼んだ後は、想像を殺してしまえば済む。と覚束ないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易な事ではない。持って生れた心の作用を、不都合なところだけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策である。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――瘠せた頬を描く。落ち込んだ眼を描く。縺れた髪を描く。虫のような気息を描く。――そうして想像は一転する。血を描く。物凄き夜と風と雨とを描く。寒き灯火を描く。白張の提灯を描く。――ぞっとして想像はとまる。想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出る快からぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で曲々の波瀾を起す。――良心を質に取られる。生涯受け出す事が出来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲る。寝覚がわるい。社会が後指を指す。惘然として煙草の煙を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行を促がす。橇の上に力なき身を託したようなものである。手を拱ぬいていれば自然と約束の淵へ滑り込む。「時」の橇ほど正確に滑るものはない。「やっぱり行く事にするか。後暗い行さえなければ行っても差支ないはずだ。それさえ慎めば取り返しはつく。小夜子の方は浅井の返事しだいで、どうにかしよう」煙草の煙が、未来の影を朦朧と罩め尽すまで濃く揺曳た時、宗近君の頑丈な姿が、すべての想像を払って、現実界にあらわれた。いつの間にどう下女が案内をしたか知らなかった。宗近君はぬっと這入った。「だいぶ狼籍だね」と云いながら紅溜の膳を廊下へ出す。黒塗の飯櫃を出す。土瓶まで運び出して置いて、「どうだい」と部屋の真中に腰を卸した。「どうも失敬です」と主人は恐縮の体で向き直る。折よく下女が来て湯沸と共に膳椀を引いて行く。心を二六時に委ねて、隻手を動かす事をあえてせざるものは、自から約束を践まねばならぬ運命を有つ。安からぬ胸を秒ごとに重ねて、じりじりと怖い所へ行く。突然と横合から飛び出した宗近君は、滑るべく余儀なくせられたる人を、半途に遮った。遮ぎられた人は邪魔に逢うと同時に、一刻の安きを故の位地に貪る事が出来る。約束は履行すべきものときまっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が剣呑になって来た時、自分に責任がないように、人が履行を妨げてくれるのは嬉しい。なぜ行かないと良心に責められたなら、行くつもりの義務心はあったが、宗近君に邪魔をされたから仕方がないと答える。小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にして面白からぬ感情のために四方から深く鎖されている。宗近君と藤尾とは遠い縁続である。自分が藤尾を陥いれるにしても、藤尾が自分を陥いれるにしても、二人の間に取り返しのつかぬ関係が出来そうな際どい約束を、素知らぬ顔で結んだのみか、今実行にとりかかろうと云う矢先に、突然飛び込まれたのは、迷惑はさて置いて、大いに気が咎める。無関係のものならそれでも好い。突然飛び込んだものは、人もあろうに、相手の親類である。ただの親類ならまだしもである。兼てから藤尾に心のある宗近君である。外国で死んだ人が、これこそ娘の婿ととうから許していた宗近君である。昨日まで二人の関係を知らずに、昔の望をそのままに繋いでいた宗近君である。偸まれた金の行先も知らずに、空金庫を護っていた宗近君である。秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、半劈れた。眠っていた眼を醒しかけた金鎖のあとへ、浅井君が行って井上の事でも喋舌ったら――困る。気の毒とはただ先方へ対して云う言葉である。気が咎めるとは、その上にこちらから済まぬ事をした場合に用いる。困るとなると、もう一層上手に出て、利害が直接に吾身の上に跳ね返って来る時に使う。小野さんは宗近君の顔を見て大いに困った。宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、気﹅の﹅毒﹅の﹅輪﹅で尻こそばゆく取り巻かれている。その上には気﹅が﹅咎﹅め﹅る﹅輪﹅が気味わるそうに重なっている。一番外には困﹅る﹅輪﹅が黒墨を流したように際限なく未来に連なっている。そうして宗近君はこの未来を司どる主人公のように見えた。「昨日は失敬した」と宗近君が云う。小野さんは赤くなって下を向いた。あとから金時計が出るだろうと、心元なく煙草へ火を移す。宗近君はそんな気色も見えぬ。「小野さん、さっき浅井が来てね。その事でわざわざやって来た」とすぱりと云う。小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこし、してから煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。「小野さん、敵が来たと思っちゃいけない」「いえけっして……」と云った時に小野さんはまたぎくりとした。「僕は当っ擦りなどを云って、人の弱点に乗ずるような人間じゃない。この通り頭ができた。そんな暇は薬にしたくってもない。あっても僕のうちの家風に背く……」宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分らなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。「そんな卑しい人間と思われちゃ、急がしいところをわざわざ来た甲斐がない。君だって教育のある事理の分った男だ。僕をそう云う男と見て取ったが最後、僕の云う事は君に対して全然無効になる訳だ」小野さんはまだ黙っている。「僕はいくら閑人だって、君に軽蔑されようと思って車を飛ばして来やしない。――とにかく浅井の云う通なんだろうね」「浅井がどう云いましたか」「小野さん、真面目だよ。いいかね。人間は年に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮ばかりで生きていちゃ、相手にする張合がない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」「そうかも――知れないです」と小野さんは術なげながら、正直に白状した。「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」「ええ」「他人が不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。僕もその一人かも知れない。知れないどころじゃない、たしかにその一人だろう」小野さんはこの時始めて積極的に相手を遮ぎった。「あなたは羨しいです。実はあなたのようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです」愛嬌に調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本音が出る。悄然として誠を帯びた声である。「小野さん、そこに気がついているのかね」宗近君の言葉には何だか暖味があった。「いるです」と答えた。しばらくしてまた、「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、「僕の性質は弱いです」と云った。「どうして」「生れつきだから仕方がないです」これも下を向いたまま云う。宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に肱を乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――「こう云う危うい時に、生れつきを敲き直して置かないと、生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」小野さんは首を垂れた。「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車で馳けつけやしない。そうじゃないか、小野さん」宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」「いえ、分ったです」「真面目だよ」「真面目に分ったです」「そんなら好い」「ありがたいです」「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々真に受けちゃ大変だが――本来を云うと浅井が来てこれこれだと、あれが僕に話した通を君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。そうして、君の云うところと照し合せた上で事実を判断するのが順当かも知れない。いくら頭の悪い僕でもそのくらいな事は知ってる。しかし真面目になると、ならないとは大問題だ。契約があったの、滑ったの転んだの。嫁があっちゃあ博士になれないの、博士にならなくっちゃ外聞が悪いのって、まるで小供見たような事は、どっちがどっちだって構わないだろう、なあ君」「ええ構わないです」「要するに真面目な処置は、どうつければ好いのかね。そこが君のやるところだ。邪魔でなければ相談になろう。奔走しても好い」悄然として項垂れていた小野さんは、この時居ずまいを正した。顔を上げて宗近君を真向に見る。眸は例になく確乎と坐っていた。「真面目な処置は、出来るだけ早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断わったのは全く僕が悪かったです。君に対しても済まんです」「僕に済まん?まあそりゃ好い、後で分る事だから」「全く済まんです。――断わらなければ好かったです。断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね」「そりゃ君が頼んだ通り断わったそうだ。しかし井上さんは君自身に来て断われと云うそうだ」「じゃ、行きます。これから、すぐ行って謝罪って来ます」「だがね、今僕の阿父を井上さんの所へやっておいたから」「阿父さんを?」「うん、浅井の話によると、何でも大変怒ってるそうだ。それから御嬢さんはひどく泣いてると云うからね。僕が君のうちへ来て相談をしているうちに、何か事でも起ると困るから慰問かたがたつなぎにやっておいた」「どうもいろいろ御親切に」と小野さんは畳に近く頭を下げた。「なに老人はどうせ遊んでいるんだから、御役にさえ立てば喜んで何でもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が調えば、車で御嬢さんを呼びにやるからこっちへ寄こしてくれって。――来たら、僕のいる前で、御嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ」「やります。こっちから行っても好いです」「いや、ここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」小野さんは少しく痹んで見えた。宗近君はすぐつける。「何、僕が君の妻君を藤尾さんに紹介してもいい」「そう云う必要があるでしょうか」「君は真面目になるんだろう。――僕の前で奇麗に藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ」「連れて行っても好いですが、あんまり面当になるから――なるべくなら穏便にした方が……」「面当は僕も嫌だが、藤尾さんを助けるためだから仕方がない。あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない」「しかし……」「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目になって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮の活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。」「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」「宜ろしい」「ところで、みんな打ち明けてしまいますが。――実は今日大森へ行く約束があるんです」「大森へ。誰と」「その――今の人とです」「藤尾さんとかね。何時に」「三時に停車場で出合うはずになっているんですが」「三時と――今何時か知らん」ぱちりと宗近君の胴衣の中ほどで音がした。「もう二時だ。君はどうせ行くまい」「廃すです」「藤尾さん一人で大森へ行く事は大丈夫ないね。うちやっておいたら帰ってくるだろう。三時過になれば」「一分でも後れたら、待ち合す気遣ありません。すぐ帰るでしょう」「ちょうど好い。――何だか、降って来たな。雨が降っても行く約束かい」「ええ」「この雨は――なかなか歇みそうもない。――とにかく手紙で小夜子さんを呼ぼう。阿父が待ち兼て心配しているに違ない」春に似合わぬ強い雨が斜めに降る。空の底は計られぬほど深い。深いなかから、とめどもなく千筋を引いて落ちてくる。火鉢が欲しいくらいの寒である。手紙は点滴の響の裡に認められた。使が幌の色を、打つ雨に揺かして、一散に去った時、叙述は移る。最前宗近家の門を出た第二の車はすでに孤堂先生の僑居に在って、応分の使命をつくしつつある。孤堂先生は熱が出て寝た。秘蔵の義董の幅に背いて横えた額際を、小夜子が氷嚢で冷している。蹲踞る枕元に、泣き腫した眼を赤くして、氷嚢の括目に寄る皺を勘定しているかと思われる。容易に顔を上げない。宗近の阿父さんは、鉄線模様の臥被を二尺ばかり離れて、どっしりと尻を据えている。厚い膝頭が坐布団から喰み出して軽く畳を抑えたところは、血が退いて肉が落ちた孤堂先生の顔に比べると威風堂々たるものである。宗近老人の声は相変らず大きい。孤堂先生の声は常よりは高い。対話はこの両人の間に進行しつつある。「実はそう云うしだいで突然参上致したので、御不快のところをはなはだ恐縮であるが、取り急ぐ事と、どうか悪しからず」「いや、はなはだ失礼の体たらくで、私こそ恐縮で。起きて御挨拶を申し上げなければならんのだが……」「どう致して、そのままの方が御話がしやすくて結句私の都合になります。ハハハハ」「まことに御親切にわざわざ御尋ね下すってありがたい」「なに、昔なら武士は相見互と云うところで。ハハハハ私などもいつ何時御世話にならんとも限らん。しかし久しぶりで東京へ御移ではさぞ御不自由で御困りだろう」「二十年目になります」「二十年目、そりゃあそりゃあ。二た昔ですな。御親類は」「無いと同然で。久しい間、音信不通にしておったものですからな」「なるほど。それじゃ、全く小野氏だけが御力ですな。そりゃ、どうも、怪しからん事になったもので」「馬鹿を見ました」「いやしかし、どうにか、なりましょう。そう御心配なさらずとも」「心配は致しません。ただ馬鹿を見ただけで、先刻よく娘にも因果を含めて申し聞かしておきました」「しかしせっかくこれまで御丹精になったものを、そう思い切りよく御断念になるのも惜いから、どうかここはひとまず私共に御任せ下さい。忰も出来るだけ骨を折って見たいと申しておりましたから」「御好意は実に辱ない。しかし先方で断わる以上は、娘も参りたくもなかろうし、参ると申しても私がやれんような始末で……」小夜子は氷嚢をそっと上げて、額の露を丁寧に手拭でふいた。「冷やすのは少し休めて見よう。――なあ小夜子行かんでも好いな」小夜子は氷嚢を盆へ載せた。両手を畳の上へ突いて、盆の上へ蔽いかぶせるように首を出す。氷嚢へぽたりぽたりと涙が垂れる。孤堂先生は枕に着けた胡麻塩頭を、「好いな」と云いながら半分ほど後へ捩じ向けた。ぽたりと氷嚢へ垂れるところが見えた。「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近老人はとりあえず二遍つづけざまに述べる。孤堂先生の首は故の位地に復した。潤んだ眼をひからしてじっと老人を見守っている。やがて、「しかしそれがために小野が藤尾さんとか云う婦人と結婚でもしたら、御子息には御気の毒ですな」と云った。「いや――そりゃ――御心配には及ばんです。忰は貰わん事にしました。多分――いや貰わんです。貰うと云っても私が不承知です。忰を嫌うような婦人は、忰が貰いたいと申しても私が許しません」「小夜や、宗近さんの阿父さんも、ああおっしゃる。同じ事だろう」「私は――参らんでも――宜しゅうございます」と小夜子が枕の後で切れ切れに云った。雨の音の強いなかでようやく聞き取れる。「いや、そうなっちゃ困る。私がわざわざ飛んで来た甲斐がない。小野氏にもだんだん事情のある事だろうから、まあ忰の通知しだいで、どうか、先刻御話を申したように御聞済を願いたい。――自分で忰の事をかれこれ申すのは異なものだが、忰は事理の分った奴で、けっして後で御迷惑になるような取計は致しますまい。御破談になった方が御為だと思えばその方を御勧めして来るでしょう。――始めて御目に懸ったのだがどうか私を御信用下さい。――もう何とか云って来る時分だが、あいにくの雨で……」雨を衝く一輛の車は輪を鳴らして、格子の前で留った。がらりと明く途端に、ぐちゃりと濡れた草鞋を沓脱へ踏み込んだものがある。――叙述は第三の車の使命に移る。第三の車が糸子を載せたまま、甲野の門に轔々の響を送りつつ馳けて来る間に、甲野さんは書斎を片づけ始めた。机の抽出を一つずつ抜いて、いつとなく溜った往復の書類を裂いては捨て、裂いては捨る。床の上は千切れた半切で膝の所だけが堆くなった。甲野さんは乱るる反故屑を踏みつけて立った。今度は抽出から一枚、二枚と細字に認めた控を取り出す。中には五六頁纏めて綴じ込んだのもある。大抵は西洋紙である。また西洋字である。甲野さんは一と目見て、すぐ机の上へ重ねる。中には半行も読まずに置き易えるのもある。しばらくすると、重なるものは小一尺の高まで来た。抽出は大抵空になる。甲野さんは上下へ手を掛けて、総体を煖炉の傍まで持って来たが、やがて、無言のまま抛げ込んだ。重なるものは主人公の手を離るると共に一面に崩れた。葡萄の葉を青銅に鋳た灰皿が洋卓の上にある。灰皿の上に燐寸がある。甲野さんは手を延ばして燐寸の箱を取った。取りながら横に振ると、あたじけない五六本の音がする。今度は机へ帰る。レオパルジの隣にあった黄表紙の日記を持って煖炉の前まで戻って来た。親指を抑えにして小口を雨のように飛ばして見ると、黒い印気と鼠の鉛筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙まで来て留った。何を書いたものやらいっこう要領を得ない。昨夕寝る前に書き込んだ、入レ道無言客。出レ家有髪僧。
の一聯が、最後の頁の最後の句である事だけを記憶している。甲野さんは思い切って日記を散らばった紙の上へ乗せた。屈んだ。煖炉敷の前でしゅっと云う音がする。乱れた紙は、静なるうちに、惓怠い伸をしながら、下から暖められて来る。きな臭い煙が、紙と紙の隙間を這い上って出た。すると紙は下層の方から動き出した。「うん、まだ書く事があった」と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変る。ぼうと音がすると煖炉のうちは一面の火になった。「おや、どうしたの」戸口に立った母は不審そうに煖炉の中を見詰めている。甲野さんは声に応じて体を斜めに開く。袂の先に火を受けて母と向き合った。「寒いから部屋を煖めます」と云ったなり、上から煖炉の中を見下した。火は薄い水飴の色に燃える。藍と紫が折々は思い出したように交って煙突の裏へ上って行く。「まあ御あたんなさい」折から風に誘われた雨が四五筋、窓硝子に当って砕けた。「降り出しましたね」母は返事をせずに三足ほど部屋の中に進んで来た。すかすように欽吾を見て、「寒ければ、石炭を焼かせようか」と云った。めらめらと燃えた火は、揺ぐ紫の舌の立ち騰る後から、ぱっと一度に消えた。煖炉の中は真黒である。「もうたくさんです。もう消えました」云い終った欽吾は、煖炉に背中を向けた。時に亡父の眼玉が壁の上からぴかりと落ちて来た。雨の音がざあっとする。「おやおや、手紙が大変散らばって――みんな要らないのかい」欽吾は床の上を眺めた。裂き棄てた書面は見事に乱れている。あるいは二三行、あるいは五六行、はなはだしいのは一行の半分で引き千切ったのがある。「みんな要りません」「それじゃ、ちっと片づけよう。紙屑籠はどこにあるの」欽吾は答えなかった。母は机の下を覗き込む。西洋流の籃製の屑籠が、足掛の向に仄に見える。母は屈んで手を伸した。紺緞子の帯が、窓からさす明をまともに受けた。欽吾は腕を右へ真直に、日蔽のかかった椅子の背頸を握った。瘠せた肩を斜にして、ずるずると机の傍まで引いて来た。母は机の奥から屑籠を引き擦り出した。手紙の断片を一つ一つ床から拾って籠の中へ入れる。捩じ曲げたのを丹念に引き延ばして見る。「いずれ拝眉の上……」と云うのを投げ込む。「……御免蒙り度候。もっとも事情の許す場合には御……」と云うのを投げ込む。「……はとうてい辛抱致しかね……」と云うのを裏返して見る。欽吾は尻眼に母をじろりと眺めた。机の角に引き寄せた椅子の背に、うんと腕の力を入れた。ひらりと紺足袋が白い日蔽の上に揃った。揃った紺足袋はすぐ机の上に飛び上る。「おや、何をするの」と母は手紙の断片を持ったまま、下から仰向いた。眼と眼の間に怖の色が明かに読まれた。「額を卸します」と上から落ちついて云う。「額を?」怖は愕と変じた。欽吾は鍍金の枠に右の手を懸けた。「ちょいと御待ち」「何ですか」と右の手はやはり枠に懸っている。「額を外して何にする気だい」「持って行くんです」「どこへ」「家を出るから、額だけ持って行くんです」「出るなんて、まあ。――出るにしても、もっと緩外したら宜さそうなもんじゃないか」「悪いですか」「悪くはないよ。御前が欲しければ持って行くが、いいけれども。何もそんなに急がなくっても好いんだろう」「だって今外さなくっちゃ、時間がありません」母は変な顔をして呆然として立った。欽吾は両手を額に掛ける。「出るって、御前本当に出る気なのかい」「出る気です」欽吾は後ろ向に答えた。「いつ」「これから、出るんです」欽吾は両手で一度上へ揺り上げた額を、折釘から外して、下へさげた。細い糸一本で額は壁とつながっている。手を放すと、糸が切れて落ちそうだ。両手で恭しく捧げたままである。母は下から云う。「こんな雨の降るのに」「雨が降っても構わないです」「せめて藤尾に暇乞でもして行ってやっておくれな」「藤尾はいないでしょう」「だから待っておくれと云うのだあね。藪から棒に出るなんて、御母さんを困らせるようなもんじゃないか」「困らせるつもりじゃありません」「御前がその気でなくっても、世間と云うものがあります。出るなら出るようにして出てくれないと、御母さんが恥を掻きます」「世間が……」と云いかけて額を持ちながら、首だけ後へ向けた時、細長く切れた欽吾の眼は一度は母に落ちた。やがて母から遠退いて戸口に至ってはたと動かなくなった。――母は気味悪そうに振返る。「おや」天から降ったように、静かに立っていた糸子は、ゆるやかに頭を下げた。鷹揚に膨ました廂髪が故に帰ると、糸子は机の傍まで歩を移して来る。白足袋が両方揃った時、「御迎に参りました」と真直に欽吾を見上げた。「鋏を取って下さい」と欽吾は上から頼む。顎で差図をした、レオパルジの傍に、鋏がある。――ぷつりと云う音と共に額は壁を離れた。鋏はかちゃりと床の上に落ちた。両手に額を捧げた欽吾は、机の上でくるりと正面に向き直った。「兄が欽吾さんを連れて来いと申しましたから参りました」欽吾は捧げた額を眼八分から、そろりそろりと下の方へ移す。「受取って下さい」糸子は確と受取った。欽吾は机から飛び下りる。「行きましょう。――車で来たんですか」「ええ」「この額が乗りますか」「乗ります」「じゃあ」と再び額を受取って、戸口の方へ行く。糸子も行く。母は呼びとめた。「少し御待ちよ。――糸子さんも少し待ってちょうだい。何が気に入らないで、親の家を出るんだか知らないが、少しは私の心持にもなって見てくれないと、私が世間へ対して面目がないじゃないか」「世間はどうでも構わないです」「そんな聞訳のない事を云って、――頑是ない小供みたように」「小供なら結構です。小供になれれば結構です」「またそんな。――せっかく、小供から大人になったんじゃないか。これまでに丹精するのは、一と通りや二た通りの事じゃないよ、御前。少しは考えて御覧な」「考えたから出るんです」「どうして、まあ、そんな無理を云うんだろうね。――それもこれもみんな私の不行届から起った事だから、今更泣いたって、口説いたって仕方がないけれども、――私は――亡くなった阿父さんに――」「阿父さんは大丈夫です。何とも云やしません」「云やしませんたって――何も、そう、意地にかかって私を苛めなくっても宜さそうなもんじゃないか」甲野さんは額を提げたまま、何とも返事をしなくなった。糸子はおとなしく傍に着いている。雨は部屋を取り巻いて吹き寄せて来る。遠い所から風が音を輳めてくる。ざあっと云う高い響である。また広い響である。響の裡に甲野さんは黙然として立っている。糸子も黙然として立っている。「少しは分ったかい」と母が聞いた。甲野さんは依然として黙している。「これほど云っても、まだ分らないのかね」甲野さんはやはり口を開かない。「糸子さん、こう云う体たらくなんですから。どうぞ御宅へ御帰りになったら、阿父さんや兄さんに御覧の通りを御話し下さい。――まことに、こんなところをあなた方に御見せ申すのは、何ともかとも面目しだいもございません」「御叔母さん。欽吾さんは出たいのですから、素直に出して御上げなすったら好いでしょう。無理に引っ張っても何にもならないと思います」「あなたまでそれじゃ仕方がありませんね。――それは失礼ながら、まだ御若いから、そう云う奥底のない御考も出るんでしょうが。――いくら出たいたって、山の中の一軒家に住んでいる人間じゃなし、そう今が今思い立って、今出られちゃ、出る当人より、残ったものが困りまさあね」「なぜ」「だって人の口は五月蠅じゃありませんか」「人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう」「だって御互に世間に顔出しが出来ればこそ、こうやって今日を送っているんじゃありませんか。自分より世間の義理の方が大事でさあね」「だって、こんなに出たいとおっしゃるんですもの。御可哀想じゃありませんか」「そこが義理ですよ」「それが義理なの。つまらないのね」「つまらなかありませんやね」「だって欽吾さんは、どうなっても構わない……」「構わなかないんです。それがやっぱり欽吾のためになるんです」「欽吾さんより御叔母さんのためになるんじゃないの」「世の中への義理ですよ」「分らないわ、私には。――出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの。それが御叔母さんの迷惑になるはずはないわ」「だって、こんな雨が降って……」「雨が降っても、御叔母さんは濡れないんだから構わないじゃありませんか」汽車のない時の事であった。山の男と海の男が喧嘩をした。山の男が魚は塩辛いものだと云う。海の男が魚に塩気があるものかと云う。喧嘩はいつまで立っても鎮まらなかった。教育と名くる汽車がかかって、理性の楷段を自由に上下する方便が開けないと、御互の考は御互に分らない。ある時は俗社会の塩漬になり過ぎて、ただ見てさえも冥眩しそうな人間でないと、人間として通用しない事がある。それは嘘だ偽だと説いて聞かしてもなかなか承知しない。どこまでも塩漬趣味を主張する。――謎の女と糸子の応対は、どこまで行っても並行するだけで一点には集まらない。山の男と海の男が魚に対して根本的の観念を異にするごとく、謎の女と糸子とは、人間に対して冒頭から考が違う。海と山とを心得た甲野さんは黙って二人を見下している。糸子の云うところは弁護の出来ぬほど簡単である。母の主張は愛想のつきるほど愚にしてかつ俗である。この二人の問答を前に控えて、甲野さんは阿爺の額を抱いたまま立っている。別段退屈した気色も見えない。焦慮たそうな様子もない。困ったと云う風情もない。二人の問答が、日暮まで続けば、日暮まで額を持って、同じ姿勢で、立っているだろうと思われる。ところへ、雨の中の掛声がした。車が玄関で留った。玄関から足音が近づいて来た。真先に宗近君があらわれた。「やあ、まだ行かないのか」と甲野さんに聞く。「うん」と答えたぎりである。「御叔母さんもここか、ちょうど好い」と腰を掛ける。後から小野さんが這入って来る。小野さんの影を一寸も出ないように小夜子がついてくる。「御叔母さん、雨の降るのに大入ですよ。――小夜子さん、これが僕の妹です」活躍の児は一句にして挨拶と紹介を兼る。宗近君は忙しい。甲野さんは依然として額を支えて立ったままである。小野さんも手持無沙汰に席に着かぬ。小夜子と糸子はいたずらに丁寧な頭を下げた。打ち解けた言葉は無論交す機会がない。「雨の降るのに、まあよく……」母はこれだけの愛嬌を一面に振り蒔いた。「よく降りますね」と宗近君はすぐ答えた。「小野さんは……」と母が云い懸けた時、宗近君がまた遮った。「小野さんは今日藤尾さんと大森へ行く約束があるんだそうですね。ところが行かれなくなって……」「そう――でも、藤尾はさっき出ましたよ」「まだ帰らないですか」と宗近君は平気に聞いた。母は少しく不快な顔をする。「どうして大森どころじゃない」と独語のように云ったが、ちょっと振り返って、「みんな掛けないか。立ってると草臥るぜ。もう直藤尾さんも帰るだろう」と注意を与えた。「さあ、どうぞ」と母が云う。「小野さん、掛けたまえ。小夜子さんも、どうです。――甲野さん何だい、それは……」「父の肖像を卸しまして、あなた。持って出るとか申して」「甲野さん、少し待ちたまえ。もう藤尾さんが帰って来るから」甲野さんは別に返事もしなかった。「少し私が持ちましょう」と糸子が低い声で云う。「なに……」と甲野さんは提げていた額を床の上へ卸して壁へ立て掛けた。小夜子は俯向きながら、そっと額の方を見る。「なんぞ藤尾に、御用でも御有なさるんですか」これは母の言葉であった。「ええ、あるんです」これは宗近の答であった。あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一輛の車はクレオパトラの怒を乗せて韋駄天のごとく新橋から馳けて来る。宗近君は胴衣の上で、ぱちりと云わした。「三時二十分」何とも応えるものがない。車は千筋の雨を、黒い幌に弾いて一散に飛んで来る。クレオパトラの怒は布団の上で躍り上る。「御叔母さん京都の話でも、しましょうかね」降る雨の地に落ちぬ間を追い越せと、乗る怒は車夫の背を鞭って馳けつける。横に煽る風を真向に切って、歯を逆に捩ると、甲野の門内に敷き詰めた砂利が、玄関先まで長く二行に砕けて来た。濃い紫の絹紐に、怒をあつめて、幌を潜るときに颯とふるわしたクレオパトラは、突然と玄関に飛び上がった。「二十五分」と宗近君が云い切らぬうちに、怒の権化は、辱しめられたる女王のごとく、書斎の真中に突っ立った。六人の目はことごとく紫の絹紐にあつまる。「やあ、御帰り」と宗近君が煙草を啣えながら云う。藤尾は一言の挨拶すら返す事を屑とせぬ。高い背を高く反らして、屹と部屋のなかを見廻した。見廻した眼は、最後に小野さんに至って、ぐさりと刺さった。小夜子は背広の肩にかくれた。宗近君はぬっと立った。呑み掛けの煙草を、青葡萄の灰皿に放り込む。「藤尾さん。小野さんは新橋へ行かなかったよ」「あなたに用はありません。――小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」「行っては済まん事になりました」小野さんの句切りは例になく明暸であった。稲妻ははたはたとクレオパトラの眸から飛ぶ。何を猪子才なと小野さんの額を射た。「約束を守らなければ、説明が要ります」「約束を守ると大変な事になるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が云う。「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」宗近君は二三歩大股に歩いて来た。「僕が紹介してやろう」と一足小野さんを横へ押し退けると、後から小さい小夜子が出た。「藤尾さん、これが小野さんの妻君だ」藤尾の表情は忽然として憎悪となった。憎悪はしだいに嫉妬となった。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」小夜子は泣き腫らした眼を俯せたまま、細い首を下げる。藤尾は白い拳を握ったまま、動かない。「嘘です。嘘です」と二遍云った。「小野さんは私の夫です。私の未来の夫です。あなたは何を云うんです。失礼な」と云った。「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」「わたしを侮辱する気ですね」化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の怒を満面に注ぐ。「好意だよ。好意だよ。誤解しちゃ困る」と宗近君はむしろ平然としている。――小野さんはようやく口を開いた。――「宗近君の云うところは一々本当です。これは私の未来の妻に違ありません。――藤尾さん、今日までの私は全く軽薄な人間です。あなたにも済みません。小夜子にも済みません。宗近君にも済みません。今日から改めます。真面目な人間になります。どうか許して下さい。新橋へ行けばあなたのためにも、私のためにも悪いです。だから行かなかったです。許して下さい」藤尾の表情は三たび変った。破裂した血管の血は真白に吸収されて、侮蔑の色のみが深刻に残った。仮面の形は急に崩れる。「ホホホホ」歇私的里性の笑は窓外の雨を衝いて高く迸った。同時に握る拳を厚板の奥に差し込む途端にぬらぬらと長い鎖を引き出した。深紅の尾は怪しき光を帯びて、右へ左へ揺く。「じゃ、これはあなたには不用なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赭黒い宗近君の掌に確と落ちた。宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に赭黒い拳が空に躍る。時計は大理石の角で砕けた。「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな酔興な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯をしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」「そうだ」呆然として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床の上に倒れた。

