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虜美人草・夏目漱石

18

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十八

小夜子さよこは婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて出雲焼いずもやきの皿に移すと、真中にある青い鳳凰ほうおうの模様が和製のビスケットで隠れた。黄色なふちはだいぶ残っている。そろえて渡す二本の竹箸たけばしを、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりとえんせまってくる。「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩をうしろへ引くついでに、「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。小夜子は淋しい笑顔を俯向うつむけて、今度は答さえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子をながめている。これからこの女の結婚問題を壊すんだなと思いながら平気に眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や生涯しょうがいの幸福についてはあまり同情をひょうしておらん。ただ頼まれたから頼まれたなりに事を運べば好いものと心得ている。そうしてそれがもっとも法学士的で、法学士的はもっとも実際的で、実際的は最上の方法だと心得ている。浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思った事のない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に阻害そがいせらるるものと信じている。想像力を待って、始めて、まったき人性にもとらざる好処置が、知慧ちえ分別の純作用以外にきてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いた事がない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の運命が、夫子ふうし一言いちごんでどう変化するだろうかとは浅井君の夢にだも考え得ざる問題である。浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、孤堂こどう先生は変な咳を二つ三ついた。小夜子は心元なく父のかたを向く。「御薬はもう上がったんですか」「朝の分はもう飲んだよ」「御寒い事はござんせんか」「寒くはないが、少し……」先生は右の手頸てくびへ左の指を三本けた。小夜子は浅井のいる事も忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見詰めている。先生の顔はひげと共に日ごとに細長くせこけて来る。「どうですか」気遣きづかわしに聞く。「少し、早いようだ。やっぱり熱がれない」と額に少ししわが寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立を野中に避けて、たよりと思う一本杉をありがたしとこずえを見れば稲妻いなずまがさす。こわいと云うよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る疳癪かんしゃくなら、機嫌きげんの取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽しようがない。かりそめの風邪かぜと、当人も思い、自分もにしなかった昨日今日きのうきょうせきを、蔭へ廻って聞いて見ると、医者は性質たちが善くないと云う。二三日で熱が退かないと云って焦慮じれるような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。云わねば気で通す。その上かんを起す。この調子で進んで行くと、一年ののちには神経が赤裸あかはだかになって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――昨夜ゆうべ小夜子は眼を合せなかった。「羽織でも召していらしったら好いでしょう」孤堂先生は返事をせずに、「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。「どうかなすったんですか」と浅井君が無雑作むぞうさに尋ねた。「いえ、ちっと風邪かぜを引いてね」「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も頓着とんじゃくもなかった。病気の源因と、経過と、容体をくわしく聞いて貰おうと思っていた先生はあてはずれた。「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。「はい、ただ今」さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて、「はあ、そうかい」と気のない返事をした。浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。孤堂先生のくぼんだまなこは一度に鋭どくなった。やがて鋭どいものが一面に広がって顔中苦々にがにがしくなる。した方がえですな」置きくした験温器をがしていた、次の間の小夜子は、長火鉢の二番目の抽出ひきだしを二寸ほど抜いたまま、はたりと引く手を留めた。先生の苦々にがにがしい顔は一層こまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想し得ない。「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。「君は小野の悪口を云いに来たのかね」「ハハハハ先生本当ですよ」浅井君は妙なところで高笑をいた。「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どくねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君は始めて驚ろいた。しばらく黙っている。「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた障子しょうじに影がさす。腰板のはずれから細い白木のつつがそっと出る。畳の上で受取った先生はぽんと云わして筒を抜いた。取り出した験温器を日にかざして二三度やけに振りながら、「何だって、そんな余計な事を云うんだ」度盛どもりすかして見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこの間に元気を回復した。「実は頼まれたんです」「頼まれた?誰に」「小野に頼まれたんです」「小野に頼まれた?」先生はわきの下へ験温器を持って行く事を忘れた。茫然ぼうぜんとしている。「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」「ふうん。もっとくわしく話すがいい」「二三日じゅうに是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」ふすまの蔭で小夜子がはなをかんだ。つつましき音ではあるが、一重ひとえ隔ててすぐむこうにいる人のそれと受け取れる。鴨居かもいに近く聞えたのは、襖越ふすまごしに立っているらしい。浅井君の耳にはどんな感じを与えたか知らぬ。「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」「よし分った。理由はそれぎりかい」「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」「月々金でもくれると云うのかい」「そうです」「おい小夜や、ちょっと御出おいで小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。小夜子はふすまの蔭に蹲踞うずくまったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。「君は妻君があるかい」「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は玩具おもちゃじゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物いきものだよ。わしから云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金をみついでやる?貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想かわいそうだから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」小夜子は襖の蔭ですすなきをしている。先生はしきりにく。浅井君は面喰めんくらった。こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。瞹眛あいまいな約束をやめてくれと云うのもさほど不義理とは受取れない。世話をして貰いっ放しでは不都合かも知れないが、して貰っただけの事を物質的に返すと云い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒り出す。――そこで浅井君は面喰った。「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野にって話して見ますから」と云った。これは本気の沙汰さたである。しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、「君は結婚をきわめて容易たやすい事のように考えているが、そんなものじゃない」口惜くちおしそうに云う。先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は便宜べんぎによって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけで差支さしつかえないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」浅井君はやっぱり黙っている。「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は明日あしたからどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来おっとだと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家わきへ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の生涯しょうがいを誤まらして、それで好い心持なのか」先生のくぼんだ眼が煮染にじんで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんなくわしい事情は知らんのですから」「いや、話してくれないでも好い。いやだと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家じかに訳を話すが好い」「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」「小夜のかんがえぐらい小野には分っているはずださ」と先生は平手ひらてで頬を打つように、ぴしゃりと云った。「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」ふすま向側むこうがわで、そでらしいものが唐紙からかみすそにあたる音がした。「そう返事をして差支さしつかえないだろうね」答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中にうずめた声がした。「先生もう一遍小野に話しましょう」「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」「とにかく……そう小野に云いましょう」浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は、「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て蕎麦屋そばや行灯あんどうを右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。突然電車に乗った浅井君は約一時間のちぶらりと宗近むねちか家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。五十分ほどおくれて、玄関の松の根際に梶棒かじぼうを上げた一挺は、黒いほろおろしたまま、甲野こうのの屋敷を指してける。小説はこの三挺の使命を順次に述べなければならぬ。宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、車輪おとを留めた時、小野さんはちょうど午飯ひるめしを済ましたばかりである。ぜんが出ている。飯櫃めしびつも引かれずにある。主人公は机の前へ座を移して、口から吹く濃き煙を眺めながら考えている。今日は藤尾ふじおと大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかし是非行かねばならぬとなると、何となく気がとがめる。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかも知れぬ。さいもとより自分で投げた。一六いちろくの目は明かに出た。ルビコンは渡らねばならぬ。しかし事もなげに河を横切った該撒シーザーは英雄である。通例の人はいざと云う間際まぎわになってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ずせばよかったと後悔する。乗り掛けた船に片足を入れた時、船頭が出ますよとさおを取り直すと、待ってくれと云いたくなる。誰かおかから来て引っ張ってくれれば好いと思う。乗り掛けたばかりならまだ陸へ戻る機会があるからである。約束も履行りこうせんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命と云う場合ではない。メレジスの小説にこんな話がある。――ある男とある女がしめし合せて、停車場ステーションで落ち合う手筈てはずをする。手筈が順に行って、汽笛きてきがひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の運命がいざと云う間際までせまった時女はついに停車場へ来なかった。男は待ちぼけの顔を箱馬車の中に入れて、空しくうちへ帰って来た。あとで聞くと朋友ほうゆうの誰彼が、女を抑留して、わざと約束の期を誤まらしたのだと云う。――藤尾と約束をした小野さんは、こんな風に約束を破る事が出来たら、かえって仕合しあわせかも知れぬと思いつつ煙草の煙を眺めている。それに浅井の返事がまだ来ない。だくと云えばどっちへ転んでもさいわいである。と聞くならば、退きならぬ瀬戸際せとぎわまであらかじめ押して置いて、振り返ってから、臨機応変に難関を切り抜けて行くつもりの計画だから、一刻も早く大森へ行ってしまえば済む。と云う返事を待つ必要は無論ない。ないが、決行する間際になると気掛りになる。頭でこしらえ上げた計画を人情がくずしにかかる。想像力が実行させぬように引き戻す。小野さんは詩人だけにもっとも想像力に富んでいる。想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とをのあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に延長ひきのばして想像の鏡に思い浮べてながめるととおりになる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である、豊である、ことごとく幸福である。鏡のおもてから自分の影を拭き消すとやみになる、暮になる。すべてが悲惨みじめになる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、さきかまどに立つべき煙を予想しながらたきぎを奪うと一般である。忍びない。人は眼をつぶってにがい物をむ。こんなからんだ縁をふつりと切るのに想像の眼をいていては出来ぬ。そこで小野さんは眼のつぶれた浅井君を頼んだ。頼んだあとは、想像を殺してしまえば済む。覚束おぼつかないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易な事ではない。持って生れた心の作用を、不都合なところだけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策ろうさくである。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――せた頬をえがく。落ち込んだ眼を描く。もつれた髪を描く。虫のような気息いきを描く。――そうして想像は一転する。血を描く。物凄ものすごき夜と風と雨とを描く。寒き灯火ともしびを描く。白張しらはり提灯ちょうちんを描く。――ぞっとして想像はとまる。想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出るこころよからぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で曲々きょくきょくの波瀾を起す。――良心を質に取られる。生涯受け出す事が出来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲る。寝覚ねざめがわるい。社会が後指うしろゆびす。惘然もうぜんとして煙草の煙を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行をうながす。そりの上に力なき身を託したようなものである。手をこまぬいていれば自然と約束のふちすべり込む。「時」そりほど正確に滑るものはない。「やっぱり行く事にするか。後暗うしろぐらおこないさえなければ行っても差支さしつかえないはずだ。それさえ慎めば取り返しはつく。小夜子の方は浅井の返事しだいで、どうにかしよう」煙草の煙が、未来の影を朦朧もうろうめ尽すまで濃く揺曳たなびいた時、宗近君の頑丈がんじょうな姿が、すべての想像を払って、現実界にあらわれた。いつのにどう下女が案内をしたか知らなかった。宗近君はぬっと這入はいった。「だいぶ狼籍ろうぜきだね」と云いながら紅溜べにだめの膳を廊下へ出す。黒塗の飯櫃めしびつを出す。土瓶どびんまで運び出して置いて、「どうだい」と部屋の真中に腰をおろした。「どうも失敬です」と主人は恐縮のていで向き直る。折よく下女が来て湯沸ゆわかしと共に膳椀を引いて行く。心を二六時にゆだねて、隻手せきしゅを動かす事をあえてせざるものは、おのずから約束をまねばならぬ運命をつ。安からぬ胸を秒ごとに重ねて、じりじりとこわい所へ行く。突然と横合から飛び出した宗近君は、滑るべく余儀なくせられたる人を、半途はんとさえぎった。遮ぎられた人は邪魔にうと同時に、一刻の安きをもとの位地にむさぼる事が出来る。約束は履行すべきものときまっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が剣呑けんのんになって来た時、自分に責任がないように、人が履行をさまたげてくれるのは嬉しい。なぜ行かないと良心に責められたなら、行くつもりの義務心はあったが、宗近君に邪魔をされたから仕方がないと答える。小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にして面白からぬ感情のために四方から深くとざされている。宗近君と藤尾とは遠い縁続である。自分が藤尾をおとしいれるにしても、藤尾が自分を陥いれるにしても、二人の間に取り返しのつかぬ関係が出来そうな際どい約束を、素知らぬ顔で結んだのみか、今実行にとりかかろうと云う矢先に、突然飛び込まれたのは、迷惑はさて置いて、大いに気がとがめる。無関係のものならそれでも好い。突然飛び込んだものは、人もあろうに、相手の親類である。ただの親類ならまだしもである。かねてから藤尾に心のある宗近君である。外国で死んだ人が、これこそ娘の婿ととうから許していた宗近君である。昨日きのうまで二人の関係を知らずに、昔の望をそのままにつないでいた宗近君である。ぬすまれた金の行先も知らずに、空金庫からきんこまもっていた宗近君である。秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、なかばつんざかれた。眠っていた眼をさましかけた金鎖のあとへ、浅井君が行って井上の事でも喋舌しゃべったら――困る。気の毒とはただ先方へ対して云う言葉である。気がとがめるとは、その上にこちらから済まぬ事をした場合に用いる。困るとなると、もう一層上手うわてに出て、利害が直接に吾身わがみの上にね返って来る時に使う。小野さんは宗近君の顔を見て大いに困った。宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、気﹅の﹅毒﹅の﹅輪﹅で尻こそばゆく取り巻かれている。その上には気﹅が﹅咎﹅め﹅る﹅輪﹅が気味わるそうに重なっている。一番外には困﹅る﹅輪﹅が黒墨を流したように際限なく未来につらなっている。そうして宗近君はこの未来をつかさどる主人公のように見えた。昨日きのうは失敬した」と宗近君が云う。小野さんは赤くなって下を向いた。あとから金時計が出るだろうと、心元なく煙草へ火を移す。宗近君はそんな気色けしきも見えぬ。「小野さん、さっき浅井が来てね。その事でわざわざやって来た」とすぱりと云う。小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこし、してから煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。「小野さん、かたきが来たと思っちゃいけない」「いえけっして……」と云った時に小野さんはまたぎくりとした。「僕はあてこすりなどを云って、人の弱点に乗ずるような人間じゃない。この通り頭ができた。そんな暇は薬にしたくってもない。あっても僕のうちの家風にそむく……」宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分らなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。「そんないやしい人間と思われちゃ、急がしいところをわざわざ来た甲斐かいがない。君だって教育のある事理わけの分った男だ。僕をそう云う男と見て取ったが最後、僕の云う事は君に対して全然無効になる訳だ」小野さんはまだ黙っている。「僕はいくら閑人ひまじんだって、君に軽蔑けいべつされようと思って車を飛ばして来やしない。――とにかく浅井の云う通なんだろうね」「浅井がどう云いましたか」「小野さん、真面目まじめだよ。いいかね。人間はねんに一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮うわかわばかりで生きていちゃ、相手にする張合はりあいがない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」「そうかも――知れないです」と小野さんはじゅつなげながら、正直に白状した。「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」「ええ」他人ひとが不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮うわかわばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人ひとどころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。僕もその一人いちにんかも知れない。知れないどころじゃない、たしかにその一人だろう」小野さんはこの時始めて積極的に相手をさえぎった。「あなたはうらやましいです。実はあなたのようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです」愛嬌あいきょうに調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本音ほんねが出る。悄然しょうぜんとして誠を帯びた声である。「小野さん、そこに気がついているのかね」宗近君の言葉には何だか暖味あたたかみがあった。「いるです」と答えた。しばらくしてまた、「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、「僕の性質は弱いです」と云った。「どうして」「生れつきだから仕方がないです」これも下を向いたまま云う。宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上にひじを乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――「こう云うあやうい時に、生れつきをたたき直して置かないと、生涯しょうがい不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目まじめになるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。かわだけで生きている人間は、つちだけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になったあとは心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」小野さんは首を垂れた。「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目まじめの味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺ほらじゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車でけつけやしない。そうじゃないか、小野さん」宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰がすわる事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存げんそんしていると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者こうしゃに働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾いかんなく世の中へたたきつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日きのう真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。一人ひとり真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」「いえ、分ったです」「真面目だよ」「真面目に分ったです」「そんなら好い」「ありがたいです」「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々に受けちゃ大変だが――本来を云うと浅井が来てこれこれだと、あれが僕に話したとおりを君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。そうして、君の云うところと照し合せた上で事実を判断するのが順当かも知れない。いくら頭の悪い僕でもそのくらいな事は知ってる。しかし真面目になると、ならないとは大問題だ。契約があったの、すべったのころんだの。嫁があっちゃあ博士になれないの、博士にならなくっちゃ外聞が悪いのって、まるで小供見たような事は、どっちがどっちだって構わないだろう、なあ君」「ええ構わないです」「要するに真面目な処置は、どうつければ好いのかね。そこが君のやるところだ。邪魔でなければ相談になろう。奔走しても好い」悄然しょうぜんとして項垂うなだれていた小野さんは、この時居ずまいをただした。顔を上げて宗近君を真向まむきに見る。ひとみは例になく確乎しっかと坐っていた。「真面目な処置は、出来るだけ早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断わったのは全く僕が悪かったです。君に対しても済まんです」「僕に済まん?まあそりゃ好い、あとで分る事だから」「全く済まんです。――断わらなければ好かったです。断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね」「そりゃ君が頼んだ通り断わったそうだ。しかし井上さんは君自身に来て断われと云うそうだ」「じゃ、行きます。これから、すぐ行って謝罪あやまって来ます」「だがね、今僕の阿父おやじを井上さんの所へやっておいたから」阿父おとっさんを?」「うん、浅井の話によると、何でも大変怒ってるそうだ。それから御嬢さんはひどく泣いてると云うからね。僕が君のうちへ来て相談をしているうちに、何か事でも起ると困るから慰問なぐさめかたがたつなぎにやっておいた」「どうもいろいろ御親切に」と小野さんは畳に近く頭を下げた。「なに老人はどうせ遊んでいるんだから、御役にさえ立てば喜んで何でもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が調ととのえば、車で御嬢さんを呼びにやるからこっちへ寄こしてくれって。――来たら、僕のいる前で、御嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ」「やります。こっちから行っても好いです」「いや、ここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」小野さんは少しくひるんで見えた。宗近君はすぐつける。「何、僕が君の妻君を藤尾さんに紹介してもいい」「そう云う必要があるでしょうか」「君は真面目になるんだろう。――僕の前で奇麗きれいに藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ」「連れて行っても好いですが、あんまり面当つらあてになるから――なるべくなら穏便おんびんにした方が……」「面当は僕もきらいだが、藤尾さんを助けるためだから仕方がない。あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない」「しかし……」「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目はめになって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮うわかわの活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」ろしい」「ところで、みんな打ち明けてしまいますが。――実は今日大森へ行く約束があるんです」「大森へ。誰と」「その――今の人とです」「藤尾さんとかね。何時なんじに」「三時に停車場ステーションで出合うはずになっているんですが」「三時と――今何時か知らん」ぱちりと宗近君の胴衣チョッキの中ほどで音がした。「もう二時だ。君はどうせ行くまい」すです」「藤尾さん一人で大森へ行く事は大丈夫ないね。うちやっておいたら帰ってくるだろう。三時過になれば」「一分でもおくれたら、待ち合す気遣きづかいありません。すぐ帰るでしょう」「ちょうど好い。――何だか、降って来たな。雨が降っても行く約束かい」「ええ」「この雨は――なかなかみそうもない。――とにかく手紙で小夜子さんを呼ぼう。阿父おやじが待ちかねて心配しているに違ない」春に似合わぬ強い雨が斜めに降る。空の底は計られぬほど深い。深いなかから、とめどもなく千筋ちすじを引いて落ちてくる。火鉢が欲しいくらいのさむさである。手紙は点滴てんてきの響のうちしたためられた。使がほろの色を、打つ雨にうごかして、一散に去った時、叙述は移る。最前宗近家の門を出た第二の車はすでに孤堂先生の僑居きょうきょって、応分の使命をつくしつつある。孤堂先生は熱が出て寝た。秘蔵の義董ぎとうふくそむいてよこたえた額際ひたいぎわを、小夜子が氷嚢ひょうのうで冷している。蹲踞うずくまる枕元に、泣きはらした眼を赤くして、氷嚢の括目くくりめに寄るしわを勘定しているかと思われる。容易に顔を上げない。宗近の阿父おとっさんは、鉄線模様てっせんもよう臥被かいまきを二尺ばかり離れて、どっしりと尻をえている。厚い膝頭ひざがしら坐布団ざぶとんからみ出して軽く畳を抑えたところは、血が退いて肉が落ちた孤堂先生の顔に比べると威風堂々たるものである。宗近老人の声は相変らず大きい。孤堂先生の声は常よりは高い。対話はこの両人の間に進行しつつある。「実はそう云うしだいで突然参上致したので、御不快のところをはなはだ恐縮であるが、取り急ぐ事と、どうか悪しからず」「いや、はなはだ失礼のていたらくで、私こそ恐縮で。起きて御挨拶ごあいさつを申し上げなければならんのだが……」「どう致して、そのままの方が御話がしやすくて結句けっく私の都合になります。ハハハハ」「まことに御親切にわざわざ御尋ね下すってありがたい」「なに、昔なら武士は相見互あいみたがいと云うところで。ハハハハ私などもいつ何時なんどき御世話にならんとも限らん。しかし久しぶりで東京へ御移おうつりではさぞ御不自由で御困りだろう」「二十年目になります」「二十年目、そりゃあそりゃあ。むかしですな。御親類は」「無いと同然で。久しい間、音信不通いんしんふつうにしておったものですからな」「なるほど。それじゃ、全く小野うじだけが御力ですな。そりゃ、どうも、しからん事になったもので」「馬鹿を見ました」「いやしかし、どうにか、なりましょう。そう御心配なさらずとも」「心配は致しません。ただ馬鹿を見ただけで、先刻さっきよく娘にも因果いんがを含めて申し聞かしておきました」「しかしせっかくこれまで御丹精になったものを、そう思い切りよく御断念おあきらめになるのもおしいから、どうかここはひとまず私共に御任せ下さい。せがれも出来るだけ骨を折って見たいと申しておりましたから」「御好意は実にかたじけない。しかし先方で断わる以上は、娘も参りたくもなかろうし、参ると申しても私がやれんような始末で……」小夜子は氷嚢ひょうのうをそっと上げて、額の露を丁寧に手拭てぬぐいでふいた。「冷やすのは少しめて見よう。――なあ小夜子行かんでも好いな」小夜子は氷嚢を盆へせた。両手を畳の上へ突いて、盆の上へいかぶせるように首を出す。氷嚢へぽたりぽたりと涙が垂れる。孤堂先生は枕に着けた胡麻塩頭ごましおあたまを、「好いな」と云いながら半分ほどうしろじ向けた。ぽたりと氷嚢へ垂れるところが見えた。「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近老人はとりあえず二遍つづけざまに述べる。孤堂先生の首はもとの位地に復した。うるんだ眼をひからしてじっと老人を見守っている。やがて、「しかしそれがために小野が藤尾さんとか云う婦人と結婚でもしたら、御子息には御気の毒ですな」と云った。「いや――そりゃ――御心配には及ばんです。忰は貰わん事にしました。多分――いや貰わんです。貰うと云っても私が不承知です。忰をきらうような婦人は、忰が貰いたいと申しても私が許しません」「小夜や、宗近さんの阿父おとっさんも、ああおっしゃる。おんなじ事だろう」「私は――参らんでも――よろしゅうございます」と小夜子が枕のうしろで切れ切れに云った。雨の音の強いなかでようやく聞き取れる。「いや、そうなっちゃ困る。私がわざわざ飛んで来た甲斐かいがない。小野うじにもだんだん事情のある事だろうから、まあせがれの通知しだいで、どうか、先刻御話を申したように御聞済おききずみを願いたい。――自分で忰の事をかれこれ申すのはなものだが、忰は事理わけの分った奴で、けっして後で御迷惑になるような取計とりはからいは致しますまい。御破談になった方が御為だと思えばその方を御勧めして来るでしょう。――始めて御目にかかったのだがどうか私を御信用下さい。――もう何とか云って来る時分だが、あいにくの雨で……」雨をく一りょうの車は輪を鳴らして、格子こうしの前で留った。がらりとく途端に、ぐちゃりとれた草鞋わらじ沓脱くつぬぎへ踏み込んだものがある。――叙述は第三の車の使命に移る。第三の車が糸子をせたまま、甲野の門に轔々りんりんの響を送りつつけて来る間に、甲野さんは書斎を片づけ始めた。机の抽出ひきだしを一つずつ抜いて、いつとなく溜った往復の書類を裂いては捨て、裂いては捨る。ゆかの上は千切れた半切はんきれで膝の所だけがうずたかくなった。甲野さんは乱るる反故屑ほごくずを踏みつけて立った。今度は抽出ひきだしから一枚、二枚と細字さいじしたためた控を取り出す。中には五六ページまとめて綴じ込んだのもある。大抵は西洋紙である。また西洋字である。甲野さんは一と目見て、すぐ机の上へ重ねる。中には半行も読まずに置きえるのもある。しばらくすると、かさなるものは小一尺のたかさまで来た。抽出は大抵たいていからになる。甲野さんは上下うえしたへ手を掛けて、総体を煖炉のそばまで持って来たが、やがて、無言のままんだ。重なるものは主人公の手を離るると共に一面にくずれた。葡萄ぶどうの葉を青銅にた灰皿が洋卓テエブルの上にある。灰皿の上に燐寸マッチがある。甲野さんは手を延ばして燐寸の箱を取った。取りながら横に振ると、あたじけない五六本の音がする。今度は机へ帰る。レオパルジの隣にあった黄表紙きびょうしの日記を持って煖炉の前まで戻って来た。親指を抑えにして小口を雨のように飛ばして見ると、黒い印気インキねずみの鉛筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙まで来て留った。何を書いたものやらいっこう要領を得ない。昨夕ゆうべ寝る前に書き込んだ、入レ道みちにいる無言客むごんのかく出レ家いえをいず有髪僧うはつのそう

の一聯が、最後の頁の最後の句である事だけを記憶している。甲野さんは思い切って日記を散らばった紙の上へ乗せた。しゃがんだ。煖炉敷ハースラッグの前でしゅっと云う音がする。乱れた紙は、静なるうちに、惓怠けったるのびをしながら、下から暖められて来る。きな臭い煙が、紙と紙の隙間すきまのぼって出た。すると紙は下層したがわの方から動き出した。「うん、まだ書く事があった」と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変る。ぼうと音がすると煖炉のうちは一面の火になった。「おや、どうしたの」戸口に立った母は不審そうに煖炉の中を見詰めている。甲野さんは声に応じてたいを斜めに開く。たもとの先に火を受けて母と向き合った。「寒いから部屋をあたためます」と云ったなり、上から煖炉の中を見下みおろした。火は薄い水飴みずあめの色に燃える。あいむらさきが折々は思い出したように交って煙突のうちのぼって行く。「まあ御あたんなさい」折から風に誘われた雨が四五筋、窓硝子まどガラスに当って砕けた。「降り出しましたね」母は返事をせずに三足みあしほど部屋の中に進んで来た。すかすように欽吾を見て、「寒ければ、石炭をかせようか」と云った。めらめらと燃えた火は、ゆらぐ紫の舌の立ちのぼあとから、ぱっと一度に消えた。煖炉の中は真黒である。「もうたくさんです。もう消えました」云い終った欽吾は、煖炉に背中を向けた。時に亡父おやじの眼玉が壁の上からぴかりと落ちて来た。雨の音がざあっとする。「おやおや、手紙が大変散らばって――みんならないのかい」欽吾はゆかの上をながめた。裂きてた書面は見事に乱れている。あるいは二三行、あるいは五六行、はなはだしいのは一行の半分で引き千切ったのがある。「みんな要りません」「それじゃ、ちっと片づけよう。紙屑籠かみくずかごはどこにあるの」欽吾は答えなかった。母は机の下をのぞき込む。西洋流の籃製かごせい屑籠くずかごが、足掛あしかけむこうほのかに見える。母はこごんで手をのばした。紺緞子こんどんすの帯が、窓からさすあかりをまともに受けた。欽吾は腕を右へ真直まっすぐに、日蔽ひおいのかかった椅子いす背頸せくびを握った。せた肩をななめにして、ずるずると机のそばまで引いて来た。母は机の奥から屑籠をり出した。手紙の断片きれを一つ一つ床から拾って籠の中へ入れる。じ曲げたのを丹念に引き延ばして見る。「いずれ拝眉はいびの上……」と云うのを投げ込む。「……御免蒙ごめんこうむ度候たくそろもっとも事情の許す場合には御……」と云うのを投げ込む。「……はとうてい辛抱致しかね……」と云うのを裏返して見る。欽吾は尻眼に母をじろりとながめた。机の角に引き寄せた椅子の背に、うんと腕の力を入れた。ひらりと紺足袋こんたびが白い日蔽ひおいの上にそろった。揃った紺足袋はすぐ机の上に飛び上る。「おや、何をするの」と母は手紙の断片を持ったまま、下から仰向あおむいた。眼と眼の間におそれの色が明かに読まれた。「額をおろします」と上から落ちついて云う。「額を?」おそれおどろきと変じた。欽吾は鍍金ときんわくに右の手をけた。「ちょいと御待ち」「何ですか」と右の手はやはり枠に懸っている。「額をはずして何にする気だい」「持って行くんです」「どこへ」うちを出るから、額だけ持って行くんです」「出るなんて、まあ。――出るにしても、もっとゆっくりはずしたらさそうなもんじゃないか」「悪いですか」「悪くはないよ。御前が欲しければ持って行くが、いいけれども。何もそんなに急がなくっても好いんだろう」「だって今外さなくっちゃ、時間がありません」母は変な顔をして呆然ぼうぜんとして立った。欽吾は両手を額に掛ける。「出るって、御前本当に出る気なのかい」「出る気です」欽吾はうしむきに答えた。「いつ」「これから、出るんです」欽吾は両手で一度上へ揺り上げた額を、折釘おれくぎから外して、下へさげた。細い糸一本で額は壁とつながっている。手を放すと、糸が切れて落ちそうだ。両手でうやうやしく捧げたままである。母は下から云う。「こんな雨の降るのに」「雨が降っても構わないです」「せめて藤尾に暇乞いとまごいでもして行ってやっておくれな」「藤尾はいないでしょう」「だから待っておくれと云うのだあね。やぶからぼうに出るなんて、御母おっかさんを困らせるようなもんじゃないか」「困らせるつもりじゃありません」「御前がその気でなくっても、世間と云うものがあります。出るなら出るようにして出てくれないと、御母さんが恥をきます」「世間が……」と云いかけて額を持ちながら、首だけうしろへ向けた時、細長く切れた欽吾の眼は一度ひとたびは母に落ちた。やがて母から遠退とおのいて戸口に至ってはたと動かなくなった。――母は気味悪そうに振返る。「おや」天から降ったように、静かに立っていた糸子は、ゆるやかにつむりを下げた。鷹揚おうようふくらました廂髪ひさしがみもとに帰ると、糸子は机のそばまで歩を移して来る。白足袋が両方そろった時、御迎おむかえに参りました」真直まっすぐに欽吾を見上げた。はさみを取って下さい」と欽吾は上から頼む。あごで差図をした、レオパルジの傍に、鋏がある。――ぷつりと云う音と共に額は壁を離れた。鋏はかちゃりとゆかの上に落ちた。両手に額を捧げた欽吾は、机の上でくるりと正面に向き直った。「兄が欽吾さんを連れて来いと申しましたから参りました」欽吾は捧げた額を眼八分めはちぶんから、そろりそろりと下の方へ移す。「受取って下さい」糸子はしかと受取った。欽吾は机から飛び下りる。「行きましょう。――車で来たんですか」「ええ」「この額が乗りますか」「乗ります」「じゃあ」と再び額を受取って、戸口の方へ行く。糸子も行く。母は呼びとめた。「少し御待ちよ。――糸子さんも少し待ってちょうだい。何が気に入らないで、親のうちを出るんだか知らないが、少しはわたしの心持にもなって見てくれないと、私が世間へ対して面目がないじゃないか」「世間はどうでも構わないです」「そんな聞訳ききわけのない事を云って、――頑是がんぜない小供みたように」「小供なら結構です。小供になれれば結構です」「またそんな。――せっかく、小供から大人おとなになったんじゃないか。これまでに丹精するのは、一と通りや二た通りの事じゃないよ、御前。少しは考えて御覧な」「考えたから出るんです」「どうして、まあ、そんな無理を云うんだろうね。――それもこれもみんな私の不行届から起った事だから、今更いまさら泣いたって、口説くどいたって仕方がないけれども、――私は――くなった阿父おとっさんに――」「阿父さんは大丈夫です。何とも云やしません」「云やしませんたって――何も、そう、意地にかかって私をいじめなくってもさそうなもんじゃないか」甲野さんは額をげたまま、何とも返事をしなくなった。糸子はおとなしく傍に着いている。雨は部屋を取り巻いて吹き寄せて来る。遠い所から風が音をあつめてくる。ざあっと云う高い響である。また広い響である。響のうちに甲野さんは黙然もくねんとして立っている。糸子も黙然として立っている。「少しは分ったかい」と母が聞いた。甲野さんは依然として黙している。「これほど云っても、まだ分らないのかね」甲野さんはやはり口を開かない。「糸子さん、こう云うていたらくなんですから。どうぞ御宅へ御帰りになったら、阿父さんや兄さんに御覧の通りを御話し下さい。――まことに、こんなところをあなた方に御見せ申すのは、何ともかとも面目しだいもございません」御叔母おばさん。欽吾さんは出たいのですから、素直に出して御上げなすったら好いでしょう。無理に引っ張っても何にもならないと思います」「あなたまでそれじゃ仕方がありませんね。――それは失礼ながら、まだ御若いから、そう云う奥底のない御考も出るんでしょうが。――いくら出たいたって、山の中の一軒家に住んでいる人間じゃなし、そう今が今思い立って、今出られちゃ、出る当人より、残ったものが困りまさあね」「なぜ」「だって人の口は五月蠅うるさいじゃありませんか」「人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう」「だって御互に世間に顔出しが出来ればこそ、こうやって今日こんにちを送っているんじゃありませんか。自分より世間の義理の方が大事でさあね」「だって、こんなに出たいとおっしゃるんですもの。御可哀想おかわいそうじゃありませんか」「そこが義理ですよ」「それが義理なの。つまらないのね」「つまらなかありませんやね」「だって欽吾さんは、どうなっても構わない……」「構わなかないんです。それがやっぱり欽吾のためになるんです」「欽吾さんより御叔母おばさんのためになるんじゃないの」「世の中への義理ですよ」「分らないわ、わたしには。――出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの。それが御叔母おばさんの迷惑になるはずはないわ」「だって、こんな雨が降って……」「雨が降っても、御叔母さんはれないんだから構わないじゃありませんか」汽車のない時の事であった。山の男と海の男が喧嘩けんかをした。山の男が魚は塩辛いものだと云う。海の男が魚に塩気があるものかと云う。喧嘩はいつまで立ってもしずまらなかった。教育となづくる汽車がかかって、理性の楷段かいだんを自由に上下する方便ほうべんが開けないと、御互のかんがえは御互に分らない。ある時は俗社会の塩漬になり過ぎて、ただ見てさえも冥眩めんけんしそうな人間でないと、人間として通用しない事がある。それはうそいつわりだと説いて聞かしてもなかなか承知しない。どこまでも塩漬趣味を主張する。――なぞの女と糸子の応対は、どこまで行っても並行するだけで一点には集まらない。山の男と海の男が魚に対して根本的の観念をことにするごとく、謎の女と糸子とは、人間に対して冒頭あたまから考が違う。海と山とを心得た甲野さんは黙って二人を見下みおろしている。糸子の云うところは弁護の出来ぬほど簡単である。母の主張は愛想あいそのつきるほど愚にしてかつ俗である。この二人の問答を前に控えて、甲野さんは阿爺おやじの額を抱いたまま立っている。別段退屈した気色けしきも見えない。焦慮じれったそうな様子もない。困ったと云う風情ふぜいもない。二人の問答が、日暮まで続けば、日暮まで額を持って、同じ姿勢で、立っているだろうと思われる。ところへ、雨の中の掛声がした。車が玄関で留った。玄関から足音が近づいて来た。真先に宗近君があらわれた。「やあ、まだ行かないのか」と甲野さんに聞く。「うん」と答えたぎりである。御叔母おばさんもここか、ちょうど好い」と腰を掛ける。あとから小野さんが這入はいって来る。小野さんの影を一寸いっすんも出ないように小夜子がついてくる。「御叔母さん、雨の降るのに大入おおいりですよ。――小夜子さん、これが僕の妹です」活躍のは一句にして挨拶あいさつと紹介をかねる。宗近君は忙しい。甲野さんは依然として額を支えて立ったままである。小野さんも手持無沙汰てもちぶさたに席に着かぬ。小夜子と糸子はいたずらに丁寧なつむりを下げた。打ち解けた言葉は無論交す機会がない。「雨の降るのに、まあよく……」母はこれだけの愛嬌あいきょうを一面に振りいた。「よく降りますね」と宗近君はすぐ答えた。「小野さんは……」と母が云いけた時、宗近君がまたさえぎった。「小野さんは今日藤尾さんと大森へ行く約束があるんだそうですね。ところが行かれなくなって……」「そう――でも、藤尾はさっき出ましたよ」「まだ帰らないですか」と宗近君は平気に聞いた。母は少しく不快な顔をする。「どうして大森どころじゃない」独語ひとりごとのように云ったが、ちょっと振り返って、「みんな掛けないか。立ってると草臥くたびれるぜ。もうじき藤尾さんも帰るだろう」と注意を与えた。「さあ、どうぞ」と母が云う。「小野さん、掛けたまえ。小夜子さんも、どうです。――甲野さん何だい、それは……」「父の肖像をおろしまして、あなた。持って出るとか申して」「甲野さん、少し待ちたまえ。もう藤尾さんが帰って来るから」甲野さんは別に返事もしなかった。「少し私が持ちましょう」と糸子が低い声で云う。「なに……」と甲野さんはげていた額をゆかの上へ卸して壁へ立て掛けた。小夜子は俯向うつむきながら、そっと額の方を見る。「なんぞ藤尾に、御用でも御有おあんなさるんですか」これは母の言葉であった。「ええ、あるんです」これは宗近の答であった。あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一りょうの車はクレオパトラのいかりを乗せて韋駄天いだてんのごとく新橋からけて来る。宗近君は胴衣ちょっきの上で、ぱちりと云わした。「三時二十分」何ともこたえるものがない。車は千筋ちすじの雨を、黒いほろはじいて一散に飛んで来る。クレオパトラのいかり布団ふとんの上でおどり上る。御叔母おばさん京都の話でも、しましょうかね」降る雨の地に落ちぬを追い越せと、乗る怒は車夫の背をむちうってけつける。横にあおる風を真向まむきに切って、歯を逆にねじると、甲野の門内に敷き詰めた砂利が、玄関先まで長く二行に砕けて来た。濃いむらさき絹紐リボンに、怒をあつめて、ほろくぐるときにさっとふるわしたクレオパトラは、突然と玄関に飛び上がった。「二十五分」と宗近君が云い切らぬうちに、怒の権化ごんげは、はずかしめられたる女王のごとく、書斎の真中に突っ立った。六人の目はことごとく紫の絹紐にあつまる。「やあ、御帰り」と宗近君が煙草をくわえながら云う。藤尾は一言いちごん挨拶あいさつすら返す事をいさぎよしとせぬ。高い背を高くらして、きっと部屋のなかを見廻した。見廻した眼は、最後に小野さんに至って、ぐさりと刺さった。小夜子は背広せびろの肩にかくれた。宗近君はぬっと立った。呑み掛けの煙草を、青葡萄あおぶどうの灰皿にほうり込む。「藤尾さん。小野さんは新橋へ行かなかったよ」「あなたに用はありません。――小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」「行っては済まん事になりました」小野さんの句切りは例になく明暸めいりょうであった。稲妻いなずまははたはたとクレオパトラのひとみから飛ぶ。何を猪子才ちょこざいなと小野さんの額を射た。「約束を守らなければ、説明がります」「約束を守ると大変な事になるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が云う。「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」宗近君は二三歩大股に歩いて来た。「僕が紹介してやろう」一足ひとあし小野さんを横へ退けると、うしろから小さい小夜子が出た。「藤尾さん、これが小野さんの妻君だ」藤尾の表情は忽然こつぜんとして憎悪ぞうおとなった。憎悪はしだいに嫉妬しっととなった。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」小夜子は泣きらした眼をせたまま、細い首を下げる。藤尾は白いこぶしを握ったまま、動かない。うそです。嘘です」と二遍云った。「小野さんはわたしおっとです。私の未来の夫です。あなたは何を云うんです。失礼な」と云った。「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」「わたしを侮辱する気ですね」化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度のいかりを満面にそそぐ。「好意だよ。好意だよ。誤解しちゃ困る」と宗近君はむしろ平然としている。――小野さんはようやく口を開いた。――「宗近君の云うところは一々本当です。これは私の未来の妻に違ありません。――藤尾さん、今日こんにちまでの私は全く軽薄な人間です。あなたにも済みません。小夜子にも済みません。宗近君にも済みません。今日から改めます。真面目まじめな人間になります。どうか許して下さい。新橋へ行けばあなたのためにも、私のためにも悪いです。だから行かなかったです。許して下さい」藤尾の表情は三たび変った。破裂した血管の血は真白に吸収されて、侮蔑ぶべつの色のみが深刻に残った。仮面めんの形は急にくずれる。「ホホホホ」歇私的里性ヒステリせいの笑は窓外の雨をいて高くほとばしった。同時に握るこぶしを厚板の奥に差し込む途端にぬらぬらと長い鎖を引き出した。深紅しんくの尾は怪しき光を帯びて、右へ左へうごく。「じゃ、これはあなたには不用なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赭黒あかぐろい宗近君のてのひらしっかと落ちた。宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に赭黒あかぐろい拳がくうおどる。時計は大理石のかどで砕けた。「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな酔興すいきょうな邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯いたずらをしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」「そうだ」呆然ぼうぜんとして立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手がかたくなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、ゆかの上に倒れた。

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