二
紅を弥生に包む昼酣なるに、春を抽んずる紫の濃き一点を、天地の眠れるなかに、鮮やかに滴たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶に眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢の上には、玉虫貝を冴々と菫に刻んで、細き金脚にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短かきを偸んで、疾風の威を作すは、春にいて春を制する深き眼である。この瞳を遡って、魔力の境を窮むるとき、桃源に骨を白うして、再び塵寰に帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊たる夢の大いなるうちに、燦たる一点の妖星が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉近く逼るのである。女は紫色の着物を着ている。静かなる昼を、静かに栞を抽いて、箔に重き一巻を、女は膝の上に読む。「墓の前に跪ずいて云う。この手にて――この手にて君を埋め参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を掃い、この手にて香を焚くべき折々の、長しえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶も我らを割き難きに、死こそ無惨なれ。羅馬の君は埃及に葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬に埋められんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、憂きわれに拒める、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、情だにあらば、羅馬の神は、よも生きながらの辱に、市に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君が仇なる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫に隠したまえ。」
女は顔を上げた。蒼白き頬の締れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重の底に、余れる何物かを蔵せるがごとく、蔵せるものを見極わめんとあせる男はことごとく虜となる。男は眩げに半ば口元を動かした。口の居住の崩るる時、この人の意志はすでに相手の餌食とならねばならぬ。下唇のわざとらしく色めいて、しかも判然と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。女はただ隼の空を搏つがごとくちらと眸を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を腭頭に飛ばして、泡吹く蟹と、烏鷺を争うは策のもっとも拙なきものである。風励鼓行して、やむなく城下の誓をなさしむるは策のもっとも凡なるものである。蜜を含んで針を吹き、酒を強いて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。拈華の一拶は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊躇する事刹那なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに迷と書き、惑と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う間に引き上げる。下界万丈の鬼火に、腥さき青燐を筆の穂に吹いて、会釈もなく描き出せる文字は、白髪をた﹅わ﹅し﹅にして洗っても容易くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻す訳には行くまい。「小野さん」と女が呼びかけた。「え?」とすぐ応じた男は、崩れた口元を立て直す暇もない。唇に笑を帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持無沙汰に草書に崩したまでであって、崩したものの尽きんとする間際に、崩すべき第二の波の来ぬのを煩っていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く咽喉を滑り出たのである。女は固より曲者である。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。「何ですか」と男は二の句を継いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも映らぬ男の眼には、二の句は固より愚かである。女はまだ何にも言わぬ。床に懸けた容斎の、小松に交る稚子髷の、太刀持こそ、昔しから長閑である。狩衣に、鹿毛なる駒の主人は、事なきに慣れし殿上人の常か、動く景色も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが外れれば、また継がねばならぬ。男は気息を凝らして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面に予期の情を漲らして、重きに過ぐる唇の、奇か偶かを疑がいつつも、手答のあれかしと念ずる様子である。「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って彎ける弓の、危うくも吾が頭の上に、瓢箪羽を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引き反えて、女は始めより、わが前に坐われる人の存在を、膝に開ける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、箔美しと見つけた時、今携えたる男の手から捥ぎ取るようにして、読み始めたのである。男は「ええ」と申したぎりであった。「この女は羅馬へ行くつもりなんでしょうか」女は腑に落ちぬ不快の面持で男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。「行きはしませんよ。行きはしませんよ」と縁もない女王を弁護したような事を云う。「行かないの?私だって行かないわ」と女はようやく納得する。小野さんは暗い隧道を辛うじて抜け出した。「沙翁の書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って馳け出そうとする。魚は淵に躍る、鳶は空に舞う。小野さんは詩の郷に住む人である。稜錐塔の空を燬く所、獅身女の砂を抱く所、長河の鰐魚を蔵する所、二千年の昔妖姫クレオパトラの安図尼と相擁して、駝鳥の翣箑に軽く玉肌を払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。「沙翁の描いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」「どんな心持ちに?」「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、紫色のクレオパトラが眼の前に鮮やかに映って来ます。剥げかかった錦絵のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」「紫?よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」「なぜって、そう云う感じがするのです」「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き袖を、さっと捌いて、小野さんの鼻の先に翻えす。小野さんの眉間の奥で、急にクレオパトラの臭がぷんとした。「え?」と小野さんは俄然として我に帰る。空を掠める子規の、駟も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける異しき色は、疾く収まって、美くしい手は膝頭に乗っている。脈打つとさえ思えぬほどに静かに乗っている。ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、恋々と遠のく後を追うて、小野さんの心は杳窕の境に誘われて、二千年のかなたに引き寄せらるる。「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息の恋じゃありません。暴風雨の恋、暦にも録っていない大暴雨の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。「九寸五分の恋が紫なんですか」「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」「恋を斬ると紫色の血が出るというのですか」「恋が怒ると九寸五分が紫色に閃ると云うのです」「沙翁がそんな事を書いているんですか」「沙翁が描いた所を私が評したのです。――安図尼が羅馬でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道を持って来た時に――クレオパトラの……」「紫が嫉妬で濃く染まったんでしょう」「紫が埃及の日で焦げると、冷たい短刀が光ります」「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う間もなく長い袖が再び閃いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を眺めている。「そこでクレオパトラがどうしました」と抑えた女は再び手綱を緩める。小野さんは馳け出さなければならぬ。「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、詰り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように背が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮します。」「全体追窮する人の年はいくつなんです」「クレオパトラは三十ばかりでしょう」「それじゃ私に似てだいぶ御婆さんね」女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき靨のなかに捲き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば偽りになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。皓い歯に交る一筋の金の耀いてまた消えんとする間際まで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事を疾うから知っている。美しき女の二十を越えて夫なく、空しく一二三を数えて、二十四の今日まで嫁がぬは不思議である。春院いたずらに更けて、花影欄にたけなわなるを、遅日早く尽きんとする風情と見て、琴を抱いて恨み顔なるは、嫁ぎ後れたる世の常の女の習なるに、麈尾に払う折々の空音に、琵琶らしき響を琴柱に聴いて、本来ならぬ音色を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。仔細は固より分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々に覗き込んで、いらざる臆測に、うやむやなる恋の八卦をひそかに占なうばかりである。「年を取ると嫉妬が増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。小野さんはまた面喰う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる訳がない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に堪能なる文学者である。「そうですね。やっぱり人に因るでしょう」角を立てない代りに挨拶は濁っている。それで済ます女ではない。「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」「あなたが――あなたに嫉妬なんて、そんなものは、今だって……」「有りますよ」女の声は静かなる春風をひやりと斬った。詩の国に遊んでいた男は、急に足を外して下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高い崖の上から、こちらを見下している。自分をこんな所に蹴落したのは誰だと考える暇もない。「清姫が蛇になったのは何歳でしょう」「左様、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」「安珍は」「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」「小野さん」「ええ」「あなたは御何歳でしたかね」「私ですか――私はと……」「考えないと分らないんですか」「いえ、なに――たしか甲野君と御同い年でした」「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど老けて見えますよ」「なに、そうでも有りません」「本当よ」「何か奢りましょうか」「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」「そんなに見えますか」「まるで坊っちゃんのようですよ」「可愛想に」「可愛らしいんですよ」女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠の中に飼われて、個体の粟を喙んでは嬉しげに羽搏するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音を競うものは必ず斃れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き損ねた。「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍のようなの」「安珍は苛い」許せと云わぬばかりに、今度は受け留めた。「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。「だって……」「だって、何が御厭なの」「私は安珍のように逃げやしません」これを逃げ損ねの受太刀と云う。坊っちゃんは機を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。「ホホホ私は清姫のように追っ懸けますよ」男は黙っている。「蛇になるには、少し年が老け過ぎていますかしら」時ならぬ春の稲妻は、女を出でて男の胸をするりと透した。色は紫である。「藤尾さん」「何です」呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は緑り濃き植込に隔てられて、往来に鳴る車の響さえ幽かである。寂寞たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁の畳を境に、二尺を隔てて互に顔を見合した時、社会は彼らの傍を遠く立ち退いた。救世軍はこの時太鼓を敲いて市中を練り歩るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息を引き取ろうとしている。露西亜では虚無党が爆裂弾を投げている。停車場では掏摸が捕まっている。火事がある。赤子が生れかかっている。練兵場で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄さんと宗近君は叡山に登っている。花の香さえ重きに過ぐる深き巷に、呼び交わしたる男と女の姿が、死の底に滅り込む春の影の上に、明らかに躍りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来る心臓の扉は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女を、躍然と大空裏に描き出している。二人の運命はこの危うき刹那に定まる。東か西か、微塵だに体を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃然たる爆発物が抛げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体は二塊の燄である。「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、砂利を軋る車輪がはたと行き留まった。襖を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢は崩れた。「母が帰って来たのです」と女は坐ったまま、何気なく云う。「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然と外に露わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎は、法庭の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人も後指を指す事は出来ぬ。出来れば向うが悪るい。天下はあくまでも太平である。「御母さんは、どちらへか行らしったんですか」「ええ、ちょっと買物に出掛けました」「だいぶ御邪魔をしました」と立ち懸ける前に居住をちょっと繕ろい直す。洋袴の襞の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、突っかい棒に、尻を挙げるための、膝頭に揃えた両手は、雪のようなカフスに甲まで蔽われて、くすんだ鼠縞の袖の下から、七宝の夫婦釦が、きらりと顔を出している。「まあ御緩くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色もない。男はもとより尻を上げるのは厭である。「しかし」と云いながら、隠袋の中を捜ぐって、太い巻煙草を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを紛らす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を据え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも詰める便が出来んとも限らぬ。薄い煙りの、黒い口髭を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀な命令を下した。男は無言のまま再び膝を崩す。御互に春の日は永い。「近頃は女ばかりで淋しくっていけません」「甲野君はいつ頃御帰りですか」「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」「御音信が有りますか」「いいえ」「時候が好いから京都は面白いでしょう」「あなたもいっしょに御出になればよかったのに」「私は……」と小野さんは後を暈かしてしまう。「なぜ行らっしゃらなかったの」「別に訳はないんです」「だって、古い御馴染じゃありませんか」「え?」小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」「それで御馴染なんですか」「ええ」「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」「随分不人情ね」「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的真面目になって、埃及煙草を肺の中まで吸い込んだ。「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。「御母さんでしょう」と小野さんが聞く。「ええ」「私はもう帰ります」「なぜです」「でも何か御用が御在りになるんでしょう」「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」「しかしあんまり教えないんだから」「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」「そうでしょうか」「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。「失礼ですがちょっと御免蒙ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床に据えた古薩摩の香炉に、いつ焼き残したる煙の迹か、こぼれた灰の、灰のままに崩れもせず、藤尾の部屋は昨日も今日も静かである。敷き棄てた八反の座布団に、主を待つ間の温気は、軽く払う春風に、ひっそり閑と吹かれている。小野さんは黙然と香炉を見て、また黙然と布団を見た。崩し格子の、畳から浮く角に、何やら光るものが奥に挟まっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今までは頓と気がつかなかった。藤尾の立つ時に、絹障のしなやかに、布団が擦れて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下を覗いて見た。松葉形に繋ぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七子の縁が幽かに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。金は色の純にして濃きものである。富貴を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を冀うものは必ずこの色を撰む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨である。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。折柄向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、曲がり椽を伝わって近づいて来る。小野さんは覗き込んだ眼を急に外らして、素知らぬ顔で、容斎の軸を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。黒縮緬の三つ紋を撫で肩に着こなして、くすんだ半襟に、髷ばかりを古風につやつやと光らしている。「おやいらっしゃい」と御母さんは軽く会釈して、椽に近く座を占める。鶯も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。「藤尾が始終御厄介になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽に――いつも御挨拶を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に赤児で、困り切ります、駄々ばかり捏ねまして――でも英語だけは御蔭さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は行かんものと見えまして――」御母さんの弁舌は滾々としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を挟む遑まなく、口車に乗って馳けて行く。行く先は固より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて続を読んでいる。「花を墓に、墓に口を接吻して、憂きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯をこそと召す。浴みしたる後は夕餉をこそと召す。この時賤しき厠卒ありて小さき籃に無花果を盛りて参らす。女王の該撒に送れる文に云う。願わくは安図尼と同じ墓にわれを埋めたまえと。無花果の繁れる青き葉陰にはナイルの泥の燄の舌を冷やしたる毒蛇を、そっと忍ばせたり。該撒の使は走る。闥を排して眼を射れば――黄金の寝台に、位高き装を今日と凝らして、女王の屍は是非なく横わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の頭のあたりに、月黒き夜の露をあつめて、千顆の珠を鋳たる冠の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を瞑る」
埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、焚き罩むる錬香の尽きなんとして幽かなる尾を虚冥に曳くごとく、全き頁が淡く霞んで見える。「藤尾」と知らぬ御母さんは呼ぶ。男はやっと寛容だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向ている。「藤尾」と御母さんは呼び直す。女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪の、白い額に接く下から、骨張らぬ細い鼻を承けて、紅を寸に織る唇が――唇をそと滑って、頬の末としっくり落ち合う腭が――腭を棄ててなよやかに退いて行く咽喉が――しだいと現実世界に競り出して来る。「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変奇麗な――汚さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」「大事にしていますわ」「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を開いた。「いえ、あなた、どうもわがまま者の寄り合いだもんでござんすから、始終、小供のように喧嘩ばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある恐喝手段は長者の好んで年少に対して用いる遊戯である。「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。玩具の九寸五分を突き付けたような気合である。「兄の本を庭へ抛げたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの眉間へ向けて抛げつけた。御母さんは苦笑いをする。小野さんは口を開く。「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と御母さんは遠廻しに棄鉢になった娘の御機嫌をとる。「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、始終身体が悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして判然したらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々を捏ねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出して貰いました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の呑気屋で、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」「アハハハ快活な面白い人ですな」「宗近と云えば、御前さっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。「ここです」と藤尾は、軽く諸膝を斜めに立てて、青畳の上に、八反の座布団をさらりと滑べらせる。富貴の色は蜷局を三重に巻いた鎖の中に、堆く七子の蓋を盛り上げている。右手を伸べて、輝くものを戛然と鳴らすよと思う間に、掌より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに喰い留められると、余る力を横に抜いて、端につけた柘榴石の飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波は紅の珠に女の白き腕を打つ。第二の波は観世に動いて、軽く袖口にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女は衝と立ち上がった。奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、疾く動く景色を、茫然と眺めていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は、「御母さん」と後を顧みながら、「こうすると引き立ちますよ」と云って故の席に返る。小野さんの胴衣の胸には松葉形に組んだ金の鎖が、釦の穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に燦爛と耀やいている。「どうです」と藤尾が云う。「なるほど善く似合いますね」と御母さんが云う。「全体どうしたんです」と小野さんは煙に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。「じゃ、まあ、止しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計を外してしまった。

