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孤島の鬼・江戸川乱歩

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復讐鬼

どれ程眠ったのか、胃袋が焼ける様な夢を見て、目を醒した。身動きすると、身体の節々が、神経痛みたいにズキンズキンした。「目がさめたかい。僕等は相変らず、穴の中にいるんだよ。まだ生きているんだよ」先に起きていた諸戸が、私の身動きを感じて、物優く話しかけた。私は、水も食物もなく、永久に抜け出す見込のない闇の中に、まだ生きていることをハッキリ意識すると、ガタガタ震い出す程の恐怖に襲われた。睡眠の為に思考力が戻って来たのが、呪わしかった。「怖い。僕、怖い」私は諸戸の身体をさぐって、擦り寄って行った。「蓑浦君、僕達はもう再び地上へ出ることはない。誰も僕達を見ているものはない。僕達自身だって、お互の顔さえ見えぬのだ。そして、ここで死んでしまってからも、僕等のむくろは、恐らく永久に、誰にも見られはしないのだ。ここには、光がないと同じ様に、法律も、道徳も、習慣も、なんにもない。人類が絶滅したのだ。別の世界なのだ。僕は、せめて死ぬまでの僅かの間でも、あんなものを忘れてしまいたい。今僕等には羞恥も、礼儀も、虚飾も、猜疑も、なんにもないのだ。僕達はこの闇の世界へ生れて来た二人切りの赤坊あかんぼうなんだ」諸戸は、散文詩でも朗読する様に、こんなことを喋りつづけながら、私を引寄せて、肩に手を廻して、しっかりと抱いた。彼が首を動かす度に、二人の頬と頬とが擦れ合った。「僕は君に隠していたことがある。だが、そんなことは人類社会の習慣だ、虚飾だ。ここでは隠すことも、恥しいこともありゃしない。親爺のことだよ。アン畜生の悪口だよ。こんなに云っても、君は僕を軽蔑する様なことはあるまいね。だって、僕達に親だとか友達だとかあったのは、ここでは、みんな前世の夢みたいなもんだからね」そして、諸戸はこの世のものとも思われぬ、醜悪怪奇なる大陰謀について、語り始めたのであった。「諸戸屋敷に滞在していた時、毎日別室で、丈五郎の奴と口論していたのを、君も知っているだろう。あの時、すっかり奴の秘密を聞いてしまったのだよ。諸戸家の先代が、化物みたいな、傴僂の下女に手をつけて生れたのが、丈五郎なのだ。無論正妻はあったし、そんな化物に手をつけたのは、ほんの物好きな出来心だったから、因果と母親に輪をかけた片輪の子供が生れると、丈五郎の父親は、彼等母子をいとい憎んで、金をつけて島の外へ追放してしまった。母親は正妻ではないので、親の姓を名乗っていた。それが諸戸なのだ。丈五郎は今では樋口家ひぐちけあるじだけれど、あたりまえの人間を呪うの余り、姓までも樋口をきらい、諸戸で押し通しているのだ。母親は生れたばかりの丈五郎をつれて、本土の山奥で乞食みたいな生活をしながら、世を呪い人を呪った。丈五郎は幾年月この呪いの声を子守歌として育った。彼等はまるで別の獣ででもある様に、あたり前の人間を恐れ憎んだ。丈五郎は成人するまでの、数々の悩み苦しみ、人間共の迫害について、長い物語を聞かせてくれた。母親は彼に呪いの言葉を残して死んで行った。成人すると、彼はどうしたきっかけでか、この岩屋島へ渡ったが、丁度その頃樋口家の世継ぎ、つまり丈五郎の異母兄に当る人が、美しい妻と生れた許りの女の子を残して死んでしまった。丈五郎はそこへ乗込んで行って、とうとう居坐ってしまったのだ。丈五郎は因果なことに、この兄の妻に恋をした。後見役といった立場に在るのを幸い、手を尽してその婦人を口説いたが、婦人は『片輪者の意に従うなら、死んだ方がましだ』という、無情な一言を残して、子供をつれ、ひそかに島を逃げ出してしまった。丈五郎は真青になって、歯を食いしばって、ブルブル震えながら、その話をした。それまでとても片輪のひがみから、常人を呪っていた彼は、その時から、本当に世を呪う鬼と変ってしまった。彼は方々探し廻って、自分以上にひどい片輪娘を見つけ出し、それと結婚した。全人類に対する復讐の第一歩を踏んだのだ。その上、片輪者と見れば、家に連れ戻って、養うことを始めた。若し子供が出来るなら、当り前の人間でなくて、ひどいひどい片輪者が生れます様と、祈りさえした。だが、何という運命のいたずらであろう。片輪の両親の間に生れたのは僕だった。似もつかぬ、極く当り前の人間だった。両親はそれが通常の人間であるという丈けで、我子をさえも憎んだ。僕が成長するにつれて、彼等の人間憎悪は益々深まって行った。そして、遂に身の毛もよだつ陰謀を企らむ様になったのだ。彼等は手を廻して、遠方の生れたばかりの貧乏人の子を買って歩いた。その赤坊が美しくて可愛い程、彼等は歯をむき出して喜んだ。蓑浦君、この死の暗闇の中だから、打開けるのだけれど、彼等は不具者製造を、思い立ったのだよ。君は支那の虞初新志という本を読んだことがあるかい。あの中に見世物に売る為に赤坊を箱詰めにして不具者を作る話が書いてある。又、僕はユーゴーの小説に、仏蘭西フランスの医者が同じ様な商売をしていた様に書いてあるのを読んだ覚えがある。不具者製造というのは、どこの国にもあったことかも知れない。丈五郎は無論そんなことを知りゃしない。人間の考え出すことを、あいつも考え出したに過ぎない。だが、丈五郎のは金儲かねもうけが主眼ではなく、正常人類への復讐なんだから、そんな商売人の何層倍も執拗で深刻な筈だ。子供を首丈け出る箱の中に入れて、成長を止め、一寸法師を作った。顔の皮をはいで、別の皮を植え、熊娘を作った。指を切断して三つ指を作った。そして出来上ったものを、興行師に売出した。此の間三人の男が、箱を舟につんで出帆したのも、人造不具者輸出なんだ。奴等は港でない荒磯へあの舟をつけ、山越しに町に出て、悪人共と取引をするのだ。僕が奴等は数日帰って来ないと云ったのは、それを知っていたからだよ。そう云うことを始めている所へ、僕が東京の学校へ入れてくれと云い出したんだ。親爺は外科医者になるならという条件でぼくの申出を許した。そして、僕が何も気づいていないのを幸、不具者の治療を研究しろなんて、体のいいことを云って、その実不具者の製造を研究させていたのだ。頭の二つある蛙や、尻尾が鼻の上についた鼠を作ると、親爺はヤンヤと手紙で激励して来たものだ。奴が何ぜ僕の帰省を許さなかったかというに、思慮の出来た僕に不具者製造の陰謀を発見されることを恐れたんだ。打開けるのにはまだ早過ぎると思ったんだ。又、曲馬団の友之助少年を手先に使った順序も容易に想像がつく。奴は不具者ばかりでなく、血に餓えた人間獣をさえ製造していたのだ。今度僕が突然帰って来て、親爺を人殺しだと云って責めた。そこで、奴は初めて、不具者の呪いを打ちあけて、親の生涯の復讐事業を助けてくれと、僕の前に手をついて、涙を流して頼んだ。僕の外科医の知識を応用してくれと云うのだ。恐ろしい妄想だ。親爺は日本中から健全な人間を一人もなくして、片輪者ばかりで埋めることを考えているんだ。不具者の国を作ろうとしているのだ。それが子々孫々の遵守じゅんしゅすべき諸戸家のおきてだと云うのだ。上州辺じょうしゅうへんで天然の大岩を刻んで、岩屋ホテルを作っている親爺さんみたいに、子孫幾代の継続事業として、この大復讐を為しとげようと云うのだ。悪魔の妄想だ。鬼のユートピアだ。そりゃ、親爺の身の上は気の毒だ。併し、いくら気の毒だって、罪もない人の子を、箱詰めにしたり、皮をはいだりして、見世物小屋にさらすなんて、そんな残酷な、地獄の陰謀に加担出来ると思うか。それに、あいつを気の毒だと思うのは、理窟の上丈けで、僕はどういう訳か真から同情出来ないのだ。変だけれど、親の様な気がしないのだ。母にしたって同じことだ。我子をいどむ母親なんて、あるものか。あいつら夫婦は生れながらの鬼だ。畜生だ。身体と同じに心まで曲りくねっているんだ。蓑浦君、これが僕の親の正体だ。僕は奴等の子だ。人殺しよりも幾層倍も残酷なことを、一生の念願にしている悪魔の子なのだ。僕はどうすればいいのだ。悲しむのか。だが悲しむには余りに大きな悲しみだ。怒るのか。だが怒るには余りに深い憎みだ。本当のことを云うとね。この穴の中で道しるべの糸を見失った時、僕は心の隅でホッと重荷を卸した様に感じた。もう永久にこの暗闇から出なくてすむかと思うと、いっそ嬉しかった」諸戸はガタガタ震える両手で、私の肩を力一杯抱きしめて、夢中に喋り続けた。しっかりと押しつけ合った頬に、彼の涙がしとど降りそそいだ。余りの異常事に、批判力を失った私は、諸戸の為すがままに任せて、じっと身を縮めている外はなかった。

生地獄

私は尋ねたくてウズウズする一事があった。だが、自分のことばかり考えている様に思われるのがいやだったから、暫く諸戸の昂奮の鎮まるのを待った。私達は闇の中で、抱き合ったまま、黙り込んでいた。「馬鹿だね、僕は。この地下の別世界には、親もないし、道徳も羞恥もなかった筈だね。今更ら昂奮して見た所で、始まらぬことだ」やっとして、冷静に返った諸戸が、低い声で云った。「すると、あの秀ちゃん吉ちゃんの双生児も」私は機会を見出して尋ねた。「やっぱり作られた不具者だったの」「無論さ」諸戸ははき出す様に云った。「そのことは、僕には、例の変な日記帳を読んだ時から分っていた。同時に、僕はあの日記帳で、親爺のやっている事柄を薄々感づいたのだ。何故僕に変な解剖学を研究させているかって云うこともね。だが、そいつを君に云うのはいやだった。親を人殺しだと云うことは出来ても、人体変形のことは、どうにも口に出せなかった。言葉につづるさえ恐ろしかった。秀ちゃん吉ちゃんが、生れつきの双生児でないことはね、君は医者でないから知らぬけれど、僕等の方では常識なんだよ。癒合双体は必ず同性であるという動かすことの出来ない原則があるんだ。同一受精卵の場合は男と女の双生児なんて生れっこないのだよ。それにあんな顔も体質も違う双生児なんてあるものかね。赤坊の時分に、双方の皮をはぎ、肉をそいで、無理にくっつけたものだよ。条件さえよければつかぬことはない。運がよければ素人にだってやれぬとも限らぬ。だが、当人達が考えている程、芯からくっついているのではないから、切離そうと思えば、造作もないのだよ」「じゃ、あれも見世物に売る為に作ったのだね」「そうさ。ああして三味線を習わせて、一番高く売れる時期を待っていたのだよ。君は秀ちゃんが片輪でないことが判って嬉しいだろうね。嬉しいかい」「君は嫉妬しているの」人外境が私を大胆にした。諸戸の云った通り礼儀も羞恥もなかった。どうせ今に死んじまうんだ。何を云ったって構うものかと思っていた。「嫉妬している。そうだよ。アア、僕はどんなに長い間嫉妬し続けて来ただろう。初代さんとの結婚を争ったのも、一つはその為だった。あの人が死んでからも、君の限りない悲歎を見て僕はどれ程せつない思いをしていただろう。だが、もう君は、初代さんも秀ちゃんも、その外のどんな女性とも、再び逢うことは出来ないのだ。この世界では、君と僕とが全人類なのだ。アア、僕はそれが嬉しい。君と二人でこの別世界へとじ籠めて下すった神様が有難い。僕は最初から、生きようなんてちっとも思っていなかったんだ。親爺の罪亡ぼしをしなければならないという責任感が僕に色々な努力をさせたばかりだ。悪魔の子としてこの上生恥いきはじを曝そうより、君と抱き合って死んで行く方が、どれ程嬉しいか。蓑浦君、地上の世界の習慣を忘れ、地上の羞恥を棄てて、今こそ、僕の願いをれて、僕の愛を受けて」諸戸は再び狂乱の体となった。私は、彼の願いの余りのいまわしさに、答える術を知らなかった。誰でもそうであろうが、私は恋愛の対象として、若き女性以外のものを考えると、ゾッと総毛立つ様な、何とも云えぬ嫌悪を感じた。友達として肉体の接触することは何でもない。快くさえある。だが、一度それが恋愛となると、同性の肉体は、吐気を催す種類のものであった。排他的な恋愛というものの、もう一つの面である。同類憎悪だ。諸戸は友達として頼もしくもあり、好感も持てた。だが、そうであればある程、愛慾の対象として彼を考えることは、堪え難いのだ。死に直面して棄鉢すてばちになった私でも、この憎悪丈けはどうすることも出来なんだ。私は迫って来る諸戸をつき離して逃げた。「アア、君は今になっても、僕を愛してくれることは出来ないのか。僕の死にもの狂いの恋を受入れるなさけはないのか」諸戸は失望の余り、オイオイ泣きながら、私を追駈けて来た。恥も外聞もない、地の底のめんないめ﹅ん﹅な﹅い﹅千鳥が始まった。アア、何という浅間しい場面であったろう。そこは、左右の壁の広くなった、彼の洞窟の一つであったが、私は元の場所から五六間も逃げのびて、闇の片隅に蹲り、じっと息を殺していた。諸戸もひっそりしてしまった。耳をすまして人間の気配を聞いているのか、それとも、壁伝いに盲目蛇みたいに、音もなく餌物に近づきつつあるのか、少しも様子が分らなんだ。それ丈けに気味が悪い。私は闇と沈黙の中に、目も耳もない人間の様に、独りぼっちで震えていた。そして、「こんなことをしている隙があったら、少しでもこの穴を抜け出す努力をした方がよくはないのか。若しや諸戸は、彼の異様な愛慾の為に、万一助かるかも知れぬ命を、犠牲にしようとしているのではあるまいか」などと考えていた。とは云え、私も独りぼっちで、又闇の旅行を続ける気にはなれなんだ。ハッと気がつくと、蛇は既に私に近づいていた。彼は一体闇の中で私の姿が見えるのであろうか。それとも五感の外の感覚を持っていたのであろうか。驚いて逃げようとする私の足は、いつか彼のもちの様な手に掴まれていた。私ははずみを食って岩の上に横ざまに倒れた。蛇はヌラヌラと私の身体に這い上って来た。私は、このえたいの知れぬけだものけ﹅だ﹅も﹅の﹅が諸戸なのかしらと疑った。それは最早や人間と云うよりも不気味な獣類でしかなかった。私は恐怖の為にうめいた。死の恐怖とは別の、だがそれよりも、もっともっといやな、何とも云えぬ恐ろしさであった。人間の心の奥底に隠れている、ゾッとする程不気味なものが今や私の前に、その海坊主みたいな、奇怪な姿を現わしているのだ。地獄絵だ。闇と死と獣性の生地獄だ。私はいつかうめく力を失っていた。声を出すのが恐ろしかったのだ。火の様に燃えた頬が、私の恐怖に汗ばんだ頬の上に重なった。ハッハッと云う犬の様な呼吸、一種異様の体臭、そして、ヌメヌメと滑かな、熱い粘膜が、私の唇を探して、ひるの様に、顔中を這い廻った。諸戸道雄は今はこの世にいない人である。だが、私は余りに死者を恥しめることを恐れる。もうこんなことを、長々と書くのは止そう。丁度その時、非常に変な事が起った。そのお蔭で、私は難を逃れることが出来た程に、意外な椿事ちんじであった。洞窟の他の端で、変な物音がしたのだ。蝙蝠こうもりかにには馴れていたが、その物音はそんな小動物の立てたものではなかった。もっとずっと大きな生物が蠢いている気配なのだ。諸戸は私を掴んでいる手をゆるめて、私は反抗を中止して、じっと聞耳を立てた。

意外な人物

諸戸は私を離した。私達は動物の本能で、敵に対して身構えをした。耳をすますと、生き物の呼吸が聞える。「シッ」諸戸が犬を叱る様に叱った。「やっぱりそうだ。人間がいるんだ。オイ、そうだろう」意外にも、その生き物が人間の言葉を喋った。年とった人間の声だ。「君は誰だ。どうしてこんな所へ来たんだ」諸戸が聞返した。「お前は誰だ。どうしてこんな所にいるんだ」相手も同じことを云った。洞窟の反響で、声が変って聞えるせいか、何となく聞覚えのある声の様でいて、その人を思い出すのに骨が折れた。暫くの間、双方探り合いの形で、黙っていた。相手の呼吸が段々ハッキリ聞える。ジリジリと、こちらへ近寄って来る様子だ。「若しや、お前さん方は、諸戸屋敷の客人ではないかね」一間ばかりの近さで、そんな声が聞えた。今度は低い声だったので、その調子がよく分った。私はハッとある人を思出した。だが、その人は已に死んだ筈だ。丈五郎の為に殺された筈だ。……死人の声だ。一刹那、私はこの洞窟が本当の地獄ではないか、私達は已に死んでしまったのではないか、という錯覚を感じた。「君は誰だ。若しや……」私が云いかけると、相手は嬉し相に叫び出した。「アア、そうだ。お前さん蓑浦さんだね。もう一人は、道雄さんだろうね。わしは徳だよ。丈五郎に殺された徳だよ」「アア、徳さんだ。君、どうしてこんな所に」私達は思わず声を目当に走り寄って、お互の身体を探り合った。徳さんの舟は魔の淵の所で、丈五郎の落した大石の為に顛覆した。だが、徳さんは死ななかったのだ。丁度満潮の時だったので、彼の身体は、魔の淵の洞窟の中へ吸い込まれた。そして、潮が引き去ると、ただ一人闇の迷路にとり残された。それから今日まで、彼は地下に生きながらえていたのだった。「で、息子さんは?私の影武者を勤めてくれた息子さんは?」「分らないよ、大方鮫にでも食われてしまったのだろうよ」徳さんはあきらめ果てた調子であった。無理もない。徳さん自身、再び地上に出る見込みもない、まるで死人同然の身の上なんだから。「僕の為に、君達をあんな目に合わせてしまって、さぞ僕を恨んでいただろうね」私は兎も角も詫言わびごとを云った。だが、この死の洞窟の中では、そんな詫言が、何だか空々しく聞えた。徳さんはそれについては、何とも答えなかった。「お前達、ひどく弱っている塩梅だね。腹が減っているんじゃないかね。それなら、ここにわしの食い残りがあるから、たべなさるがいい。食い物の心配は要らないよ、ここには大蟹がウジャウジャいるんだからね」徳さんが、どうして生きていたかと、不審に耐えなんだが、成程、彼は蟹の生肉でうえをいやしていたのだ。私達はそれを徳さんに貰って、たべた。冷くドロドロした、しょっぱい寒天みたいなものだったが、実にうまかった。私はあとにも先にも、あんなうまい物をたべたことがない。私達は徳さんにせがんで、更らに幾匹かの大蟹を捕えて貰い、岩にぶつけて甲羅を割って、ペロペロと平げた。今考えると不気味にも汚くも思われるが、その時は、まだモヤモヤと動いている太い足をつぶして、その中のドロドロしたものをすするのが、何とも云えずうまかったものだ。飢餓きがが恢復すると、私達は少し元気になって、徳さんとお互の身の上を話し合った。「そうすると、わしらは死ぬまでこの穴を出る見込みはないのだね」私達の苦心談を聞いた徳さんが、絶望の溜息を吐いた。「わしは残念なことをしたよ。命がけで、元の穴から海へ泳ぎ出せばよかったのだ。それを、渦巻うずまきに巻き込まれて、とても命がないと思ったものだから、海へ出ないで、穴の中へ泳ぎ込んでしまったのだよ。まさかこの穴が、渦巻よりも恐ろしい、八幡の藪知らずだとは思わなかったからね。あとで気がついて引返して見たが、路に迷うばかりで、迚も元の穴へ出られやしない。だが、何が幸になるか、そうしてわしが、さ迷い歩いたお蔭で、お前さん達に逢えた訳だね」「こうして食物が出来たからには、僕達は何も絶望してしまうことはないよ。百に一つ、まぐれ当りで外に出られるものなら、九十九へんまで、無駄に歩いて見ようじゃないか、何日かかろうとも、何月いくつきかかろうとも」人数がふえたのと、蟹の生肉のお蔭で、私は俄に威勢がよくなった。「アア、君達はもう一度娑婆しゃばの風に当りたいだろうね。僕は君達が羨ましいよ」諸戸が突然悲しげに云った。「変なことを云いなさるね。お前さんは命が惜しくはないのかね」徳さんが不審そうに尋ねた。「僕は丈五郎の子なんだ。人殺しの、片輪者製造人の、悪魔の子なんだ。僕はお陽様が怖い。娑婆に出て、正しい人達に顔を見られるのが恐ろしい。この暗闇の地の底こそ悪魔の子にはふさわしい住家かも知れない」可哀想な諸戸。彼はその上に、私に対する、さっきのあさましい所業を恥じているのだ。「尤もだ。お前さんは何にも知らないだろうからね。わしはお前さん達が島へ来た時に、よっぽどそれを知らせてやろうかと思った。あの夕方、わしが海辺にうずくまって、お前さん達を見送っていたのを覚えていなさるかね。だが、わしは丈五郎の返報が恐ろしかった。丈五郎を怒らせては、一時もこの島に住んではいられなくなるのだからね」徳さんが妙なことを言い出した。彼は以前諸戸屋敷の召使であったから、ある点まで丈五郎の秘密を知っている筈だ。「僕に知らせるって、何をだね」諸戸が身動きをして、聞返した。「お前さんが、丈五郎の本当の子ではないということをさ。もうこうなったら何を喋っても構わない。お前さんは丈五郎が本土から、かどわかして来た、よその子供だよ。考えても見るがいい、あの片輪者の汚らしい夫婦に、お前さんの様な綺麗な子供が生れるものかね。あいつらの本当の子は、見世物を持って方々巡業しているんだよ。丈五郎に生写しの傴僂だ」読者は知っている、嘗つて北川刑事が、尾崎曲馬団を追って静岡県のある町へ行き、一寸法師に取入って、「お父つぁん」のことを尋ねた時、一寸法師が「お父つぁんとは別の若い傴僂が曲馬団の親方である」と云った。その親方が、丈五郎の実の子だったのだ。徳さんは語りつづける。「お前さんも、どうせ片輪者に仕込むつもりだったのだろうが、あの傴僂のお袋がお前さんを可愛がってね、あたり前の子供に育て上げてしまった。そこへ持って来て、お前さんが、中々利口者だと分ったものだから、丈五郎も我を折って、自分の子にして、学問を仕込む気になったのだよ」何ぜ自分の子にしたか。彼は悪魔の目的を遂行する上に、真実の親子という、切っても切れぬ関係が必要だったのだ。諸戸道雄は悪魔丈五郎の実子ではなかったのである。驚くべき事実だ。

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