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孤島の鬼・江戸川乱歩

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霊の導き

「もっと詳しく、もっと詳しく話して下さい」諸戸がかすれた声で、せき込んで尋ねた。「わしは親爺からの、樋口家の家来で、七年前に、傴僂さんの遣り方を見るに見兼ねていとまを取るまで、わしは今年丁度六十だから、五十年と云うもの、樋口一家のいざこざを見て来た訳だよ。順序を追って話して見るから、聞きなさるがいい」そこで、徳さんは思い出し思出し、五十年の過去にさかのぼって樋口家、即ち今の諸戸屋敷の歴史を物語ったのであるが、それを詳しく書いていては退屈だから、に一目で分る表にして掲げて置く。

慶応けいおう年代)樋口家の先代万兵衛まんべえ醜き片輪の女中に手をつけ海二かいじが生れた。これが母に輪をかけた傴僂の醜い子だったので、万兵衛は見るに耐えず、母子を追放した。彼等は本土の山中に隠れて獣の様な生活を続けていた。母は世を呪い人を呪ってその山中に死亡した。(明治十年)万兵衛の正妻の子春雄はるおが、対岸の娘琴平梅野ことひらうめのと結婚した。(明治十二年)春雄梅野の間に春代はるよ生る。間もなく春雄病死す。(明治二十年)海二が諸戸丈五郎という名で島に帰り、樋口家に入って、梅野が女主人であるを幸、ほしいままに振舞った。その上梅野に不倫なる恋を仕掛けるので彼女は春代を伴って、実家に逃げて帰った。(明治二十三年)恋に破れ世を呪う丈五郎は、醜い傴僂娘を探し出して結婚した。(明治二十五年)丈五郎夫妻の間に一子生る。因果とその子も傴僂であった。丈五郎は歯をむき出して喜んだ。彼は同じ年当歳の道雄をどこからか誘拐して来た。(明治三十三年)実家に帰った梅野の子春代(春雄の実子樋口家の正統)同村の青年と結婚す。(明治三十八年)春代長女初代を生む。これが後の木崎初代である。丈五郎に殺された私の恋人木崎初代である。(明治四十年)春代次女みどりを生む。同年春代の夫死亡し、実家も死に絶えて身寄りなき為、彼女は母の縁をたよって、岩屋島に渡り、丈五郎の屋敷に寄寓することになった。丈五郎の甘言かんげんにのせられたのである。この物語の初めに、初代が荒れ果てた海岸で、赤ちゃんをお守りしていたと語ったのは、この間の出来事で、赤ちゃんというのは次女緑であった。(明治四十一年)丈五郎の野望が露骨に現われて来た。彼は梅野に敗れた恋を、その子の春代によって満たそうとした。春代は遂に居たたまらず、ある夜初代を連れて島を抜け出した。その時次女の緑は丈五郎の為に奪われてしまった。春代は流れ流れて大阪に来たが、糊口ここうに窮して遂に初代を捨てた。それを木崎夫妻が拾ったのである。

以上が徳さんの見聞に私の想像を加えた簡単な樋口家の歴史である。これによって初代さんこそ樋口家の正統であって、丈五郎は下女の子に過ぎないことが分った。若しこの地底に宝が隠されてあるものとすれば、それは当然なき初代さんのものであることが、愈々明かになった。諸戸道雄の実の親が何所の誰であるかは、残念ながら少しも分らなんだ。それを知っているのは丈五郎丈けだ。「アア、僕は救われた。それを聞いては、どんなことがあっても、僕はもう一度地上に出る。そして、丈五郎を責めて、僕の本当の父や母の居所を白状させないではおかぬ」道雄は俄かに勇み立った。だが、私は私で、ある不思議な予感に胸をワクワクさせていた。私はそれを徳さんに聞きたださなければならぬ。「春代さんに二人の女の子があったのだね、初代と緑。その妹の緑の方は、春代さんが家出をした時、丈五郎に奪われたというのだね。数えて見ると、丁度十七になる娘さんだ。その緑はそれからどうしたの。今でも生きているの」「アア、それを話すのを忘れたっけ」徳さんが答えた。「生きています。だが、可哀想に生きているという丈けで、まともな人間じゃない。生れもつかぬ双生児の片輪にされちまってね」「オオ、若しやそれが秀ちゃんでは?」「そうだよ。あの秀ちゃんが緑さんのなれの果ですよ」何という不思議な因縁であろう。私は初代さんの実の妹に恋していたのだ。私の心持を地下の初代さんは恨むだろうか、それとも、このめぐり合わせは、凡て初代さんの霊の導きであって、彼女は私をこの孤島に渡らせ、蔵の窓の秀ちゃんを見せて、私に一目惚れをさせたのではないだろうか。アア、何だかそんな気がしてならぬ。若し初代さんの霊にそれ程の力があるのだったら我々の宝探しも首尾よく目的を果すかも知れない。そして、この地下の迷路を抜出して、再び秀ちゃんに逢う時が来るかも知れない。「初代さん、初代さん、どうか私達を守って下さい」私は心の中の懐しい彼女のおもかげに祈った。

狂える悪魔

それから又、地獄巡りの悩ましい旅が始まった。蟹の生肉に餓をしのぎ、洞窟の天井から滴り落ちる僅かの清水にかつを癒して、何十時間、私達は果しもしらぬ迷路の旅を続けた。その間の苦痛恐怖色々あれど、余り管々くだくだしければ凡て省く。地底には夜も昼もなかったけれど、私達は疲労に耐えられなくなると、岩の床に横わって睡った。その幾度目かの眠りから目覚めた時、徳さんが頓狂に叫び立てた。「紐がある。紐がある。お前さん達が見失ったという麻縄は、これじゃないかね」私達は思いがけぬ吉報に狂喜して、徳さんの側へ這い寄ってさぐって見ると、確かに麻縄だ。それでは、私達はもう入口間近かに来ているのであろうか。「違うよ、これは僕達が使った麻縄ではないよ。蓑浦君、君はどう思う。僕達のはこんなに太くなかったね」道雄が不審相に云った。云われて見ると、成程私達の使用した麻縄ではなさそうだ。「すると、僕達の外にも、誰かしるべの紐を使って、この穴へ這入ったものがあるのだろうか」「そうとしか考えられないね。しかも、僕達のあとからだ。なぜと云って、僕達が這入った時には、あの井戸の入口に、こんな麻縄なんて括りつけてなかったからね」私達のあとを追って、この地底に来たのは、全体何者であろう。敵か味方か。だが、丈五郎夫妻は土蔵にとじ籠められている。あとは片輪者ばかりだ。アア、若しや先日舟出した諸戸屋敷の使用人達が帰って来て、古井戸の入口に気づいたのではあるまいか。「兎も角も、この縄を伝って、行ける所まで行って見ようじゃないか」道雄の意見に従って、私達はその縄をしるべにして、どこまでも歩いて行った。やっぱり、何者かが地底に入り込んでいたのだ、一時間も歩くと、前方がボンヤリと明るくなって来た。曲りくねった壁を反射して来る蝋燭の光だ。私達はポケットのナイフを握りしめて、足音の反響を気にしながら、ソロソロと進んで行った。一曲りする毎に、その明るさが増す。遂に最後の曲り角に達した。その岩角の向側に、はだか蝋燭がゆらいでいる。吉か凶か、私は足がすくんで、最早や前進する力がなかった。その時、突然、岩の向側から異様な叫び声が聞えて来た。よく聞くと単なる叫び声ではない。歌だ。文句も節も滅茶滅茶の、嘗つて聞いたこともない兇暴な歌だ。それが、洞窟に反響して、一種異様の獣の叫び声とも聞えたのだ。思いがけぬ場所で、この不思議な歌を聞いて、私はゾッと身の毛もよだつ思いがした。「丈五郎だよ」先頭に立った道雄が、ソッと岩角を覗いてびっくりして、首を引込めると、低い声で私達に報告した。土蔵にとじ籠めて置いた筈の丈五郎が、どうしてここへ来たか。なぜ妙な歌を歌っているのか。私はさっぱり訳が分らなんだ。歌の調子は益々高く、愈々兇暴になって行く。そして、歌の伴奏の様にチャリンチャリンと、冴返った金属の音が聞えて来る。道雄は又ソッと岩角から覗いていたが、やがて、「丈五郎は気が違っているのだ。無理もないよ。見給え、あの光景を」と云いながら、ずんずん岩の向側へ歩いて行く。気違いと聞いて、私達も彼のあとに従った。アア、その時私達の目の前に開けた、世にも不思議な光景を、私はいつまでも忘れることが出来ない。醜い傴僂親爺が、赤い蝋燭の光に半面を照らされて、歌とも叫びともつかぬことをわめきながら、気違い踊りを躍っている。その足下は、銀杏いちょうの落葉の様に、一面の金色こんじきだ。丈五郎は洞窟の片隅にある幾つかのかめの中から、両手に掴み出しては、踊り狂いながら、キラキラとそれを落す。落すに従って、金色の雨はチャリンチャリンと、微妙な音を立てる。丈五郎は私達の先廻りをして、幸運にも地底の財宝を探り当てたのだ。しるべの縄を失わなんだ彼は、私達の様に同じ道をどうどう巡りすることなく、案外早く目的の場所に達することが出来たのであろう。だが、それは彼にとって悲しい幸運であった。驚くべき黄金の山が、遂に彼を気違いにしてしまったのだから。私達は駈け寄って彼の肩を叩き、正気づけようとしたが、丈五郎はうつろな目で私達を見返すばかり、敵意さえも失って、訳の分らぬ歌を歌い続けている。「分った、蓑浦君。僕達のしるべの麻縄を切ったのは、この親爺だったのだ。奴はそうして僕達を路に迷わせて置いて、自分は別のしるべ縄で、ここまでやって来たのだよ」道雄がそこへ気づいて云った。「だが、丈五郎がここへ来ているとすると、諸戸屋敷に残して置いた片輪達が心配だね。若しやひどい目に合わされているのじゃないだろうか」その実私は、ただ恋人秀ちゃんの安否を気遣っていたのだ。「もう、この麻縄があるんだから、外へ出るのは訳はない。兎も角一度様子を見に帰ろう」道雄の指図で、気違い親爺の見張番には徳さんを残して置いて、私達はしるべの縄を伝って、走る様に出口に向った。

刑事きた

私達は無事に井戸を出ることが出来た。久し振りの日光に、目がくらみ相になるのを、こらえこらえ、手を取り合って諸戸屋敷の表門の方へ走って行くと、向から見馴れぬ洋服紳士がやってくるのにぶつかった。「オイ、君達は何だね」その男は私達を見ると、横柄おうへいな調子で呼び止めた。「君は一体誰です。この島の人じゃない様だが」道雄が反対に聞返した。「僕は警察のものだ。この家を取調べにやって来たのだ。君達はこのうちと関係があるのかね」洋服紳士は思いがけぬ刑事巡査であった。丁度幸である。私達は銘々めいめい名を名乗った。「嘘を云い給え。諸戸、蓑浦の両人がここへ来ていることは知っている。だが、君達の様な老人ではない筈だよ」刑事は妙なことを云った。私達をとらえて「君達の様な老人」とは一体何を勘違いしているのだろう。私と道雄とは不審に堪えず、思わずお互の顔を眺め合った。そして、私達はアッと驚いてしまった。私の目の前に立っているのは、最早や数日以前までの諸戸道雄ではなかった。乞食みたいなボロボロの服、あかづいた鉛色の皮膚、おどろに乱れた頭髪、目はくぼみ、頬骨の突出た骸骨の様な顔、成程刑事が老人と見違えたのも無理ではない。「君の頭は真白だよ」道雄はそう云って妙な笑い方をした。それが私には泣いている様に見えた。私の変り方は道雄よりもひどかった。肉体の憔悴しょうすいは彼と大差なかったが、私の頭髪は、あの穴の中の数日間に、全く色素を失って、八十歳の老人の様に真白に変っていた。私は極度の精神上の苦痛が、人間の頭髪を一夜にして白くしたという不思議な現象を知らぬではなかった。その実例も二三読んだことがある。だが、そんな稀有けうの現象が、かく云う私の身に起ろうとは、全く想像の外であった。だが、この数日間、私は幾度死の、或は死以上の恐怖に脅かされたことであろう。よく気が違わなんだと思う。気が違う代りに頭髪が白くなったのだ。まだしも、それが仕合せと云わねばならぬ。同じ人外境を経験しながら、諸戸の頭髪に異常の見えぬは、流石に彼は私よりも強い心の持主であったからであろう。私達は刑事に向って、この島に来るまでの、又来てからの、一切の出来事を、かいつまんで話した。「何ぜ警察の助けを借りなかったのです。君達の苦しみは自業自得というものですよ」私達の話を聞いた刑事が、最初に発した言葉はこれであった。だが、無論微笑しながら。「悪人の丈五郎が、僕の父だと思い込んでいたものですから」道雄が弁解した。刑事は一人ではなかった。数人の同僚を従えていた。彼はそのうちの二人に命じて、地底に這入り、丈五郎と徳さんとを連れてくる様に命じた。「しるべの縄はそのままにして置いて下さい。金貨を取出さなければなりませんから」道雄がその二人に注意を与えた。池袋署の北川という刑事が、例の少年軽業師友之助の属していた、尾崎曲馬団を探る為に、静岡県まで出掛け、苦心に苦心を重ね、道化役の一寸法師に取入って、ある秘密を聞出したことは先に読者に告げて置いた。その北川刑事の苦心が効を奏し、私達とは全く別の方面から、遂にこの岩屋島の巣窟をつき止め、かくは諸戸屋敷調査の一団が乗込むことになったのであった。刑事達が来て見ると、諸戸屋敷で、男女両頭の怪物が烈しい争闘を演じていた。云うまでもなく、それは秀ちゃん吉ちゃんの双生児だ。兎も角、その怪物を取り鎮めて、様子を聞くと、秀ちゃんの方が雄弁に事の仔細を語った。私達が井戸に這入ったあとで、私と秀ちゃんの間を嫉妬した吉ちゃんが、私達を困らせる為に、丈五郎に内通して、土蔵の扉を開いたのだ。無論秀ちゃんは極力それを妨害したが、男の吉ちゃんの馬鹿力には敵わなんだ。自由の身になった丈五郎夫妻は、鞭を振って忽ち片輪者の一群を、反対に土蔵に押しこめてしまった。吉ちゃんが功労者なので、双生児丈けは、その難を免れた。それから、丈五郎は吉ちゃんの告口で私達の行方を察し、不自由な身体で自から井戸に下り、私達の麻縄を切断して置いて、別の縄によって迷路に踏み込んだのであろう。丈五郎の傴僂女房と唖のおとしさんがその手助けをしたに相違ない。それ以来秀ちゃんと吉ちゃんは、敵同士であった。吉ちゃんは秀ちゃんを自由にしようとする。秀ちゃんは吉ちゃんの裏切りをののしる。口論が嵩じて、身体と身体の争闘が始まる。そこへ刑事の一行が来合わせた訳である。秀ちゃんの説明によって、事情を知った刑事達は、直ちに丈五郎の女房とおとしさんに縄をかけ、土蔵の片輪者達を解放し丈五郎を捕える為に地底に下ろうと、その用意を始めている所へ、丁度私達が現われたのだ。刑事の物語によって以上の仔細が分った。

大団円

さて、木崎初代(正しくは樋口初代)を初め深山木幸吉、友之助少年の三重の殺人事件の真犯人は明かとなり、私達の復讐をまつまでもなく、彼は已に狂人となり果ててしまった。又、その殺人事件の動機となった樋口家の財宝の隠し場所も分った。私の長物語もこの辺で幕をとじるべきであろう。何か云い残したことはないかしら。そうそう、素人探偵深山木幸吉氏のことがある。彼はあの系図帳を見た丈けで、どうして岩屋島の巣窟を見抜くことが出来たのだろう。いくら名探偵と云っても、あんまり超自然な明察だ。私は事件が終ってから、どうもこのことが不思議で堪らぬものだから、深山木氏の友人が保管していた故人の日記帳を見せて貰って、丹念に探して見た所、あったあった。大正二年の日記帳に、樋口春代の名が見える。云うまでもなく初代さんの母御だ。読者も知っている通り、深山木氏は一種の奇人で、妻子がなかった代りには、随分色々な女と親しくなって、夫婦みたいに同棲していたことがある。春代さんもその内の一人だった。深山木氏は旅先で、困っている春代さんを拾ったのだ。(初代さんを捨て子にした後の話だ)同棲二年程で、春代さんは深山木氏の家で病死している。定めし死ぬ前に、捨て児のことも、系図帳のことも、岩屋島のことも、すっかり深山木氏に話したことであろう。これで、後年深山木氏が例の樋口家の系図帳を見るや否や、岩屋島へ駈けつけた訳が分る。系図帳は樋口春雄(丈五郎の兄)からその妻の梅野に、梅野からその子の春代に、春代から初代にと伝えられたものであろう。無論彼等はこの系図帳の真価については何事も知らなかった。ただ正統の子が持ち伝えよという先祖の遺志を守ったに過ぎない。では丈五郎はどうして、あの呪文がその中に隠してあることを知ったか。彼の女房の告白によれば、丈五郎がある日先祖の書遺した日記を読んでいて、ふとその一節を発見したのだ。そこには家に伝わる財宝の秘密が系図帳に封じこめられてあるという意味が記してあった。だが、それは春代の家出後だったので、折角の発見が何にもならなんだ。それ以来丈五郎は傴僂息子に命じて、春代の行衛ゆくえ探しに努めたが、当てのない探し物故仲々目的を達しなかった。大正十三年頃に至って、やっと今では初代がその系図帳を持っていることが分った。それから丈五郎がその系図帳を手に入れる為に、どれ程骨を折ったかは、読者の知っている通りである。樋口家の先祖は、広く倭寇わこうと云われている海賊の一類であった。大陸の海辺かいへんかすめた財宝をおびただしく所有していた。それを領主に没収されることを恐れて、深く地底に蔵し、代々その隠し場所を云い伝えて来たが、春雄の祖父に当る人がそれを呪文に作って系図帳にとじこめたまま、どういう訳であったか、その子に呪文のことを告げずして死んだ。徳さんの聞き伝えた所によると、その人は、卒中で頓死とんしをしたらしいということである。それ以来、丈五郎が古い日記帳の一節を発見するまで、樋口の一族はこの財宝について何事も知らなかった訳である。だが、この秘密は、却って樋口一族以外の人に知られていたと考うべき理由がある。それは十年程以前、K港から岩屋島に渡り、諸戸屋敷の客となって、後に魔の淵の藻屑と消えたあの妙な男があるからだ。彼は明かに古井戸から地底に這入り込んだ。私達はその跡を見た。丈五郎の女房は、その男を想い出して、あれは樋口家の先祖に使われていた者の子孫であったと語った。それでは多分、その男の先祖が財宝の隠し場所を感づいていて、書遺しでもしたものであろう。過去のことはそれ丈けにして、さて最後に、登場人物の其後を、ごく簡単に書き添えて、この物語を終ることにしよう。先ず第一に記すべきは、私の恋人秀ちゃんのことである。彼女は初代の実妹の緑に相違なく、樋口家の唯一の正統であることが分ったので、地底の財宝はことごとく彼女の所有に帰した。時価に見積って、百万円に近い財産である。秀ちゃんは百万長者だ。しかも、現在ではもう醜い癒合双体ゆごうそうたいではない。野蛮人の吉ちゃんは、道雄のメスで切離されてしまった。元々本当の癒合双体ではなかったのだから、無論両人とも何の故障もない一人前の男女である。秀ちゃんの傷口が癒えて、ちゃんと髪を結い、お化粧をし、美しい縮緬ちりめんの着物を着た彼女が、私の前に現われた時、そして、私に東京弁で話しかけた時、私の喜びがどれ程であったか、ここに管々しく述べるまでもなかろう。云うまでもなく、私と秀ちゃんとは結婚した。百万円は、今では、私と秀ちゃんの共有財産である。私達は相談をして、湘南しょうなん片瀬かたせの海岸に立派な不具者の家を建てた。樋口一家に丈五郎の様な悪魔が生れた罪亡ぼしの意味で、そこには自活力のない不具者を広く収容して、楽しい余生を送らせる積りだ。第一番のお客様は諸戸屋敷から連れて来た、人造片輪者の一団であった。丈五郎の女房や唖のおとしさんもその仲間だ。不具者の家に接して、整形外科の病院を建てた。医術の限りを尽して片輪者を正常な人間に造り変えるのが目的だ。丈五郎、彼の傴僂息子、諸戸屋敷に使われていた一味の者共は、凡てそれぞれの処刑を受けた。初代さんの養母木崎未亡人は、私達の家に引取った。秀ちゃんは彼女をお母さんお母さんと云って、大切にしている。道雄は丈五郎の女房の告白によって、実家が分った。紀州の新宮しんぐうに近いある村の豪農で父も母も兄弟も健在であった。彼は直ちに見知らぬ故郷へ、見知らぬ父母の下へ、三十年振りの帰省をした。私は彼の上京を待って、私の外科病院の院長になってもらう積りで、楽しんでいた所、彼は故郷へ帰って一月もたたぬ間に、病を発してあの世の客となった。凡て凡て好都合に運んだ中で、ただ一事、これ丈けが残念である。彼の父からの死亡通知状に左の一節があった。「道雄は最後の息を引取る間際まで、父の名も母の名も呼ばず、ただあなた様の御手紙を抱きしめ、あなた様のお名前のみ呼び続け申候もうしそうろう

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