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孤島の鬼・江戸川乱歩

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七宝しっぽうの花瓶

木崎の家は、もう忌中きちゅう貼紙はりがみも取れ、立番の巡査もいなくなって、何事もなかった様にひっそりと静まり返っていた。あとで分ったことであるが、丁度その日、初代の母親は骨上げから帰ると間もなく、検事局の呼出しを受けて、巡査につれて行かれたというので、彼女の亡夫の弟という人が、自分の家から女中を呼び寄せて、陰気な留守番をしていたのであった。私達が格子戸を開けて入ろうとすると、出会頭であいがしらに、中から意外な人物が出て来た。私とその男とは、非常な気拙きまずい思いで、ぶつかった目をそらす事も出来ず、暫く無言で睨み合っていた。それは、求婚者であったに拘らず、初代の在世中には、一度も木崎家を訪れなかった諸戸道雄が、何故かその日になって、悔みの挨拶に来ているのだった。彼はよく身に合ったモーニングコートを着て、暫く見ぬ間に、少しやつれた顔をして、どうにも目のやり場がないという様子で、立ちつくしていたが、やっとの思いらしく私に言葉をかけた。「ア、蓑浦君、しばらく。お悔みですか」私は何と返事をしていいのか分からなかったので、乾いた唇で一寸笑って見せた。「僕、君に少しお話したいことがあるんだが、そとで待ってますから、御用が済んだら、一寸その辺までつき合ってくれませんか」実際用事があったのか、その場のてれ隠しに過ぎなかったのか、諸戸はチラと深山木の方を見ながら、そんなことを云った。「諸戸道雄さんです。こちらは深山木さん」私は何の気であったか、どぎまぎして二人を紹介してしまった。双方とも私の口からうわさを聞合っていた仲なので、名前を云った丈けで、お互に名前以上の種々いろいろなことが分ったらしく、二人は意味ありげな挨拶をかわした。「君、僕に構わずに行って来給え。僕はここのうちへ一寸紹介さえしといてれりゃいいんだ。どうせ暫くこの辺にいるから、行って来給え」深山木は無造作に云って、私を促すので、私は中に這入って、見知り越しの留守居の人々に、ソッと私達の来意を告げ、深山木を紹介して置いて、外に待合せていた諸戸と一緒に、遠方へ行く訳にも行かぬので、近くのみすぼらしいカフェへ這入った。諸戸としては、私の顔を見れば彼の異様な求婚運動について、何とか弁解しなければならぬ立場であっただろうし、私の方では、そんな馬鹿なことがと打消しながらも、心の奥の奥では、諸戸に対して、ある恐ろしい疑念を抱いていて、それとなく彼の気持を探って見たい、と云う程ハッキリしていなくても、何かしらこの好機会に彼を逃がしてはならぬという様な心持があって、それに深山木が私に行くことを勧めた調子も、何だか意味ありげに思われたので、お互の不思議な関係にも拘らず、私達はつい、そんなカフェなどへ這入ったものであろう。私達はそこで何を話したか、今ではひどく気拙きまずかったという感じの外は、ハッキリ覚えていないのだが、恐らく殆ど話らしい話をしなかったのではないかと思われる。それに、深山木が用事を済ませて、そのカフェを探し当てて、這入って来たのが余りに早かったのだ。私達は飲物を前にして、長い間うつむき合っていた。私は相手を責めたい気持、彼の真意を探り度い気持で一杯ではあったが、何一つ口に出しては云えなんだ。諸戸の方でも妙にもじもじしていた。先に口を開いた方が負けだといった感じであった。奇妙な探り合いであった。だが、諸戸がこんなことを云ったのを覚えている。「今になって考えると、僕は本当に済まぬことをした。君はきっと怒っているでしょう。僕はどうして謝罪していいか分らない」彼はそんなことを、遠慮がちに、口の中で、くどくどと繰返していた。そして、彼が一体何について謝罪しているのか、ハッキリしない内に、深山木がカーテンをまくって、つかつかとそこへ這入って来た。「お邪魔じゃない?」彼はぶっきら棒に云って、ドッカと腰をおろすと、ジロジロ諸戸を眺め始めるのだった。諸戸は深山木の来たのを見ると何であったかは分らぬが、彼の目的を果しもせず、突然分れの挨拶をして、逃げる様に出て行ってしまった。「おかしな男だね。いやにソワソワしている。何か話したの?」「イイエ、何だか解らないんです」「妙だな。今木崎の家の人に聞くとね。あの諸戸君は初代さんが死んでから、三度目なんだって、訪ねて来るのが。そして妙に色々なことを尋ねたり、家の中を見て廻ったりするんだって。何かあるね。だが、かしこそうな美しい男だね」深山木はそう云って、意味ありげに私を見た。私はその際ではあったけれど、でも顔を赤くしないではいられなかった。「早かったですね。何か見つかりましたか」私はてれ隠しに質問した。「色々」彼は声を低めて真面目な顔になった。彼の鎌倉を出る時からの興奮は、増しこそすれ決してさめていない様に見えた。彼は何かしら、私の知らない色々なことを、心の奥底に隠していて独りでそれを吟味しているらしかった。「俺は久しぶりで、大物にぶつかった様な気がする。だが、俺一人の力では、少し手強いかも知れぬよ。兎に角、俺は今日からこの事件にかかり切るつもりだ」彼はステッキの先で、しめった土間にいたずら書をしながら、独言ひとりごとの様に続けた。「大体の筋道は想像がついているんだが、どうにも判断の出来ない点が一つある。解釈の方法がないではないが、そして、どうもそれが本当らしく思われるのだが、若しそうだとすると、実に恐ろしいことだ。前例のない極悪非道だ。考えても胸が悪くなる。人類の敵だ」彼は訳の分らぬことをつぶやきながら、半ば無意識にステッキを動かしていたが、ふと気がつくと、そこの地面に妙な形が描かれていた。それは燗徳利かんどくりを大きくした様な形で、花瓶かびんを描いたものではないかと思われた。彼はその中へ、非常に曖昧あいまいな書体で、七宝しっぽうと書いた。それを見ると、私は好奇心にかられて、思わず質問した。「七宝の花瓶じゃありませんか。七宝の花瓶が何かこの事件に関係があるのですか」彼はハッとした顔を上げたが、地面の絵模様に気づくと、慌ててステッキでそれを掻き消してしまった。「大きな声をしちゃいけない。七宝の花瓶、そうだね。君も仲々鋭敏だね。これだよ分らないのは。俺は今その七宝の花瓶の解釈で苦しんでいたのだよ」だが、それ以上は、私がどんなに尋ねても、彼は口をかんして語らぬのであった。間もなく私達はカフェを出て巣鴨の駅へ引返した。方向が反対なので、私達がそこのプラットフォームで別れたのだが、別れる時、深山木幸吉は「四日ばかり待ち給え。どうしてもその位かかる。五日目には、何か吉報がもたらせるかも知れないから」と云った。私は彼の思わせぶりが不服ではあったけれど、でも、ひたすら、彼の尽力じんりょくを頼む外はなかったのである。

古道具屋の客

家人かじんが心配するので、私はその翌日から、進まぬながらS・K商会へ出勤することにした。探偵のことは深山木に頼んであるのだし、私にはどう活動のして見ようもなかったので、一週間と云った彼の口約を心頼みに、空ろな日を送っていた。会社がひけると、いつも肩を並べて歩いた人の姿の見えぬさびしさに、私の足はひとりでに、初代の墓地へと向うのであった。私は毎日、恋人にでも贈る様な、花束を用意して行って、彼女の新しい卒塔婆そとばの前で泣くのを日課にした。そしてその度毎たびごとに、私の復讐ふくしゅうの念は強められて行く様に見えた。私は一日一日不思議な強さを獲得して行く様に思われた。二日目にはもう辛抱しんぼうが出来なくて、私は夜汽車に乗って、鎌倉の深山木の家を訪ねて見たが、彼は留守だった。近所で聞くと、「一昨日出かけた切り、帰らぬ」ということであった。あの日巣鴨で別れてから、そのまま彼はどこかへ行ったものと見える。私はこの調子だと、約束の五日目が来るまでは訪ねて見ても無駄足を踏むばかりだと思った。だが、三日目になって私は一つの発見をした。それが何を意味するのだか、全く不明ではあったけれど、兎も角も一つの発見であった。私は三日おくれてやっと、深山木の想像力のほんの一部分を掴むことが出来たのだ。あの謎の様な「七宝の花瓶」という言葉が、一日として私の頭から離れなかった。その日も、私は会社で仕事をしながら、算盤そろばんを弾きながら「七宝の花瓶」のことばかり思っていた。妙なことに、巣鴨のカフェで、深山木のいたずら書きを見た時から、「七宝の花瓶」というものが、私には何だか初めての感じがしなかった。どこかにそんな七宝の花瓶があった。それを見たことがあるという気がしていた。しかも、それは死んだ初代を聯想する様な関係で、私の頭の隅に残っているのだ。それが、その日、妙なことには、算盤に置いていたある数に関聯して、ヒョッコリ私の記憶の表面に浮び出した。「分った。初代の家の隣の古道具屋の店先でそれを見たことがあるのだ」私は心の中で叫ぶと、その時はもう三時を過ぎていたので、早びけにして、大急ぎで古道具屋へ駈けつけた。そして、いきなりそこの店先へ這入って行って、主人の老人を捉えた。「ここに大きな七宝の花瓶が、確かに二つならべてありましたね。あれは売れたんですか」私は通りすがりの客の様に装って、そんな風に尋ねて見た。「ヘエ、ございましたよ。ですが、売れちまいましてね」「惜しいことをした。欲しかったんだが、いつ売れたんです。二つとも同じ人が買ってったんですか」ついになっていたんですがね。買手は別々でした。こんなやくざな店には勿体もったいない様な、いい出物でしたよ。相当お値段も張っていましたがね」「いつ売れたの?」「一つは、惜しいことでございました。昨夜ゆうべでした。遠方のお方が買って行かれましたよ。もう一つは、あれはたしか先月の、そうそう二十五日でした。丁度お隣に騒動のあった日で、覚えて居りますよ」という様な具合で、話好きらしい老人は、それから長々と所謂いわゆるお隣の騒動について語るのであったが、結局、そうして私の確め得た所によると、第一の買手は商人風の男で、その前夜約束をして金を払って帰り、翌日の昼頃使いの者が来て風呂敷に包んであった花瓶をかついで行った。第二の買手は洋服の若い紳士で、その場で人力車を呼んで、持帰ったということであった。両方とも通りかかりの客で、何所どこの何という人だか勿論分らない。云うまでもなく、第一の買手が花瓶を受取りに来たのが、丁度殺人事件の発見された日と一致していたことが、私の注意をいた。だが、それが何を意味するかは少しも分らない。深山木もこの花瓶のことを考えていたに相違ないが、(老人は深山木らしい人物が三日前に同じ花瓶のことを尋ねて来たのを、よく覚えていた)どうして彼は、あんなにもこの花瓶を重視したのであろう。何か理由がなくてはかなわぬ。「あれは確かに揚羽あげはの蝶の模様でしたね」「エ、エエその通りですよ。黄色い地に沢山の揚羽の蝶が散らし模様になっていましたよ」私は覚えていた。くすんだ黄色い地に、銀の細線ほそせんで囲まれた黒っぽい沢山の蝶が、乱れとんでいる、高さ三じゃく位の一寸大きな花瓶であった。「どこから出たもんなんです」「何ね、仲間から引受けたものですが、出は、何でもある実業家の破産処分品だって云いましたよ」この二つの花瓶は、私が初代の家に出入りする様になった最初から飾ってあった。随分長い間だ。それが初代の変死後、引続いて僅か数日の間に、二つとも売れたというのは、偶然であろうか。そこに何か意味があるのではないか。私は第一の買手の方にはまるで心当りがなかったが、第二の買手には少し気附いた点があったので、最後にそれを聞いて見た。「そのあとで買いに来た客は、三十位で、色が白くて、ひげがなく、右の頬に一寸目立つ黒子ほくろのある人ではなかったですか」「そうそう、その通りの方でしたよ。優しい上品なお方でした」果してそうであった。諸戸道雄に相違ないのだ。その人なら隣の木崎の家へ二三度来た筈だが、気附かなんだかと尋ねると、丁度そこへ出て来た老人の細君が、加勢をして、それに答えてくれた。「そう云えば、あのお人ですわ。お爺さん」幸なことには彼女も亦、老主人に劣らぬ饒舌家じょうぜつかであった。「二三日前に、ホラ、黒いフロックを着て、お隣へいらっした立派な方。あれがそうでしたわ」彼女はモーニングとフロックコートとを取違えていたけれど、もう疑う所はなかった。私はなお念の為に、彼がやとったという人力車の宿を聞いて、尋ねて見たところ、送り先が、諸戸の住居のある池袋いけぶくろであったことも分った。それは余りに突飛な想像であったかも知れない。だが、諸戸の様な、謂わば変質者を、常軌じょうきりっすることは出来ぬのだ。彼は異性に恋し得ない男ではなかったか。彼は同性の愛の為に、その恋人を奪おうと企てた疑いさえあるではないか。あの突然の求婚運動がどんなに烈しいものであったか。彼の私に対する求愛がどんなに狂おしいものであったか。それを思い合わせると、初代に対する求婚に失敗した彼が、私から彼女を奪う為に、綿密に計画された、発見の恐れのない殺人罪をあえおかさなかったと、断言出来るであろうか。彼は異常に鋭い理智の持主である。彼の研究はメスをもって小動物を残酷にいじくり廻すことではなかったか。彼は血を恐れない男だ。彼は生物の命を平気で彼の実験材料に使用している男だ。私は彼が池袋に居を構えて間もなく、彼を訪ねた時の無気味な光景を思出さないではいられぬ。彼の新居は池袋の駅から半里はんみちへだたった淋しい場所に、ポッツリと建っている陰気な木造洋館で、別棟の実験室がついていた。鉄の垣根がそれを囲んでいた。家族は独身の彼と十五六歳の書生と飯炊きのばあさんの三人暮しで、動物の悲鳴の外には、人の気配もしない様な、物淋しい住いであった。彼はそこと、大学の研究室の両方で、彼の異常な研究にふけっていた。彼の研究題目は、直接病人を取扱う種類のものではなくて、何か外科学上の創造的な発見という様な事にあるらしく思われた。それは夜のことであったが、鉄の門に近づくと、私は可哀想な実験用動物の、それは主として犬であったが、耐えられぬ悲鳴を耳にした。それぞれ個性を持った犬共の叫び声が、物狂わしき断末魔だんまつまの聯想を以て、キンキンと胸にこたえた。今実験室の中で、若しやあのいまわしい活体解剖ということが行われているのではないかと思うと、私はゾッとしないではいられなかった。門を這入ると、消毒剤の強烈なにおいが鼻をうった。私は病院の手術室を思出した。刑務所の死刑場を想像した。死を凝視した動物共のどうにも出来ぬ恐怖の叫びに、耳が被いくなった。一層のこと、訪問を中止して帰ろうかとさえ思った。夜も更けぬに、母屋おもやの方は、どの窓も真暗だった。僅かに実験室の奥の方に明りが見えていた。こわい夢の中での様に、私は玄関にたどりついて、ベルを押した。暫くすると、横手の実験室の入口に電燈がついて、そこに主人の諸戸が立っていた。ゴム引きの濡れた手術衣を着て、血のりで真赤によごれた両手を前に突き出した。電燈の下で、その赤い色が、怪しく光っていたのを、まざまざと思い出す。恐ろしい疑いに胸をとざされて、しかしそれをどう確めるよすがもなくて、私は夕闇せまる郊外の町を、トボトボと歩いていた。

明正午限り

深山木幸吉との約束の「五日目」は、七月の第一日曜に当っていた。よく晴れた、非常に暑い日であった。朝九時頃、私が鎌倉へ行こうと着換えをしている所へ、深山木から電報が来た。逢い度いというのだ。汽車は、その夏最初の避暑客で可成混雑していた。海水浴には少し早かったけれど、暑いのと、第一日曜というので、気の早い連中が、続々湘南の海岸へおしかけるのだ。深山木の家の前の往来は、海岸への人通りが途絶えぬ程であった。空地にはアイスクリームの露店などが、新しい旗を立てて商売を始めていた。だが、これらの華やかな、輝かしい光景に引換えて、深山木は例の書物の山の中でひどく陰気な顔をして、考え込んでいた。「どこへ行っていたのです。僕は一度お訪ねしたんだけど」私が這入って行くと、彼は立上りもしないで、側の汚いテーブルの上をゆびさしながら、「これを見給え」と云うのだ。そこには、一枚の手紙様のものと、破った封筒とが放り出してあったが、手紙の文句は、鉛筆書きのひどくまずい字で、次の様に記されてあった。貴様はもう生かして置けぬ。明正午限り貴様の命はないものと思え。しかし、貴様の持っている例の品物を元の持主に返し(送り先は知っている筈だ)今日こんにち以後かたく秘密を守ると誓うなら、命は助けてやる。だが、正午までに書留小包にして貴様が自分で郵便局へ持って行かぬと、間に合わぬよ。どちらでも好きな方を選べ。警察に云ったとて駄目だよ。証拠を残す様なへまはしない俺だ。「つまらない冗談をするじゃありませんか。郵便で来たんですか」私は何気なく尋ねた。「いや、昨夜、窓から放り込んであったんだよ。冗談じゃないかも知れない」深山木は案外真面目な調子で云った。彼は本当に恐怖を感じているらしく、ひどく青ざめていた。「だって、こんな子供のいたずらみたいなもの、馬鹿馬鹿しいですよ。それに正午限り命をとるなんて、まるで活動写真みたいじゃありませんか」「いや、君は知らないのだよ。俺はね、恐ろしいものを見てしまったんだ。俺の想像がすっかり適中してね。悪人の本拠を確めることは出来たんだけれど、その代り変なものを見たんだ。それがいけなかった。俺は意気地いくじがなくて、逃出してしまった。君はまるで何も知らないのだよ」「いや、僕だって、少し分ったことがありますよ。七宝の花瓶ね。何を意味するのだか分らないけれど、あれをね諸戸道雄が買って行ったんです」「諸戸が?変だね」深山木は、併し、それには一向気乗りのせぬ様子だった。「七宝の花瓶には、一体どんな意味があるんです」「俺の想像が間違っていなかったら、まだ確めた訳ではないけれど、実に恐ろしい事だ。前例のない犯罪だ。だがね、恐ろしいのは花瓶丈けじゃない、もっともっと驚くべき事がある。悪魔の呪いといった様なものなんだ。想像も出来ない邪悪だ」「一体、あなたには、もう初代の下手人が分っているのですか」「俺は、少くとも彼等の巣窟をつき止めることは出来たつもりだ。もう暫く待ち給え。併し俺はやられてしまうかも知れない」深山木は、彼の謂う所の悪魔の呪いにでもかかったのであるか、馬鹿に気が弱くなっていた。「変ですね。併し、万一にもそんな心配があるんだったら、警察に話したらいいじゃありませんか。あなた一人の力で足りなかったら、警察の助力を求めたらいいじゃありませんか」「警察に話せば、敵を逃がしてしまう丈けだよ。それに、相手は分っていても、そいつを上げる丈けの確かな証拠を掴んでいないのだ。今警察が入って来ては、かえって邪魔になるばかりだ」「この手紙にある例の品物というのは、あなたには分っているのですか。一体何なのです」「分っているよ、分っているから怖いのだよ」「これを先方の申出通り送ってやる訳には行かぬのですか」「俺はね、それを敵に送り返す代りに」彼はあたりを見廻す様にして、極度に声を低め「君に宛てて書留小包で送ったよ。今日帰ると、変なものが届いている筈だが、それを傷つけたりこわしたりしない様に大切に保管してくれ給え。俺の手元に置いては危いのだ。君なら幾分安全だから、非常に大切なものなんだから間違いなくね。そして、それが大切なものだっていうことを、人に悟られぬ様にするんだよ」私は深山木のこれらの、余りにも打とけぬ、秘密的な態度が、何だか馬鹿にされている様で、快くなかった。「あなたは、知っている丈けのことを、僕に話して下さる訳には行かぬのですか。一体この事件は、僕からあなたにお願いしたので、僕の方が当事者じゃありませんか」「だが、必らずしもそれがそうでなくなっている事情があるんだ。併し、話すよ。無論話す積りなんだけれど、では、今夜ね、夕飯ゆうめしでもたべながら話すとしよう」彼は何だか気が気でないといった風で、腕時計を見た。「十一時だ。海岸へ出て見ないか。変に気が滅入っていけない。一つ久しぶりで海につかって見るかな」私は気が進まなんだけれど、彼がどんどん行ってしまうものだから、仕方なく彼のあとに従って、近くの海岸に出た。海岸には目がチロチロする程も、けばけばしい色合の海水着が群っていた。深山木は波打際へ駈けて行って、いきなり猿股さるまた一つになると、何か大声にわめいて、海の中へ飛込んで行った。私は小高い砂丘に腰をおろして、彼のいてはしゃぎ廻る様子を、妙な気持で眺めていた。私は見まいとしても、時計が見られて仕様がなかった。まさかそんな馬鹿なことがと思うものの、何となく例の脅迫状の「正午限り」という恐ろしい文句が気にかかるのだ。時間は容赦ようしゃなく進んで行く、十一時半、十一時四十分と、正午に近づくにしたがって、ムズムズと不安な気持が湧上って来る。それに、その頃になって、私を一層不安にした事柄が起った。と云うのは、果然かぜん私は果然という感じがした。の諸戸道雄が、海岸の群衆に混って、はる彼方かなたに、チラリとその姿を見せたのである。彼が丁度この瞬間、この海岸に現われたのは、単なる偶然であっただろうか。深山木はと見ると、子供好きの彼は、いつの間にか海水着の子供らに取囲まれて、鬼ごっこか何かをして、キャッキャッとその辺を走り廻っていた。空は底知れぬ紺青こんじょうに晴れ渡り、海は畳の様に静かだった。飛込台からは、うららかな掛声と共に、次々と美しい肉団が、空中に弧を描いていた。砂浜はギラギラと光り、陸に海に喜戯きぎする数多あまたの群衆は、晴々とした初夏はつなつの太陽を受けて、明るく、華やかに輝いて見えた。そこには、小鳥の様に歌い、人魚の様にたわむれ、小犬の様にじゃれ遊ぶものの外は、つまり、幸福以外のものは何もなかった。このけっ放しな楽園に、闇の世界の罪悪という様なものが、どこの一隅を探しても、ひそんでいようとは思えなんだ。まして、そのまっただ中で、血みどろな人殺しが行われようなどとは、想像することも出来なかった。だが、読者諸君、悪魔は彼の約束を少しだってたがえはしなかったのだ。彼は先には、密閉された家の中で、人を殺し、今度は、見渡す限り開けっ放しの海岸で、しかも数百の群衆の真中でその中のたった一人にさえ見とがめられることなく、少しの手掛りをも残さないで見事に人殺しをやってのけたのである。悪魔ながら、彼は何という不可思議な腕前を持っていたことであろうか。

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