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硝子戸の中・夏目漱石

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十六

宅うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈かって貰った事がある。平生は白い金巾かなきんの幕で、硝子戸ガラスどの奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。亭主は私の入ってくるのを見ると、手に持った新聞紙を放ほうり出だしてすぐ挨拶あいさつをした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私の後うしろへ廻って、鋏はさみをちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼は昔むかし寺町の郵便局の傍そばに店を持って、今と同じように、散髪を渡世とせいとしていた事が解った。「高田の旦那だんななどにもだいぶ御世話になりました」その高田というのは私の従兄いとこなのだから、私も驚いた。「へえ高田を知ってるのかい」「知ってるどころじゃございません。始終しじゅう徳とく、徳とく、って贔屓ひいきにして下すったもんです」彼の言葉遣づかいはこういう職人にしてはむしろ丁寧ていねいな方であった。「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚びっくりした調子で「へッ」と声を揚あげた。「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつ頃ごろ御亡おなくなりになりました」「なに、つい此間こないださ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」彼はそれからこの死んだ従兄いとこについて、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日きのうの事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。「あのそら求友亭きゅうゆうていの横町にいらしってね、……」と亭主はまた言葉を継つぎ足した。「うん、あの二階のある家うちだろう」「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様ほうぼうさまから御祝い物なんかあって、大変御盛ごさかんでしたがね。それから後あとでしたっけか、行願寺ぎょうがんじの寺内じないへ御引越なすったのは」この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごた掲かかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。「なるほどそう云えば誰たが袖そでなんて看板が通りから見えるようだね」「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東家あずまやってね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは」

十七

私はその東家をよく覚えていた。従兄いとこの宅うちのつい向むこうなので、両方のものが出入ではいりのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶あいさつをし合うぐらいの間柄あいだがらであったから。その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大の放蕩ほうとうもので、よく宅の懸物かけものや刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪い癖くせがあった。彼が何で従兄の家に転ころがり込んでいたのか、その時の私には解らなかったけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働らいた結果、しばらく家うちを追い出されていたかも知れないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。こういう連中がいつでも一つ所に落ち合っては、寝そべったり、縁側えんがわへ腰をかけたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子たけごうしの窓から、「今日こんちは」などと声をかけられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」とか何とか云って、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌ごあいきょうに遊びに来る。といった風の調子であった。私はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋はにかみやで通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙って隅すみの方に引込ひっこんでばかりいた。それでも私は何かの拍子ひょうしで、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何か奢おごらなければならないので、私は人の買った寿司すしや菓子をだいぶ食った。一週間ほど経たってから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時咲松さきまつという若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云った。私は小倉こくらの袴はかまを穿はいて四角張っていたが、懐中には一銭の小遣こづかいさえ無かった。「僕は銭ぜにがないから厭いやだ」「好いわ、私わたしが持ってるから」この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういいいい、綺麗きれいな襦袢じゅばんの袖そででしきりに薄赤くなった二重瞼ふたえまぶちを擦こすっていた。その後ご私は「御作おさくが好い御客に引かされた」という噂うわさを、従兄いとこの家うちで聞いた。従兄の家では、この女の事を咲松さきまつと云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会も来こないだろうと考えた。ところがそれからだいぶ経って、私が例の達人たつじんといっしょに、芝の山内さんないの勧工場かんこうばへ行ったら、そこでまたぱったり御作に出会った。こちらの書生姿に引ひき易かえて、彼女はもう品ひんの好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女の傍そばについていた。……私は床屋の亭主の口から出た東家あずまやという芸者屋の名前の奥に潜ひそんでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。「あすこにいた御作という女を知ってるかね」と私は亭主に聞いた。「知ってるどころか、ありゃ私の姪めいでさあ」「そうかい」私は驚ろいた。「それで、今どこにいるのかね」「御作は亡なくなりましたよ、旦那」私はまた驚ろいた。「いつ」「いつって、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」「へええ」「しかも浦塩ウラジオで亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」私は帰って硝子戸ガラスどの中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

十八

私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分の周囲まわりがきちんと片づかないで困りますが、どうしたら宜よろしいものでしょう」と聞いた。この女はある親戚の宅うちに寄寓きぐうしているので、そこが手狭てぜまな上に、子供などが蒼蠅うるさいのだろうと思った私の答は、すこぶる簡単であった。「どこかさっぱりした家うちを探して下宿でもしたら好いでしょう」「いえ部屋の事ではないので、頭の中がきちんと片づかないで困るのです」私は私の誤解を意識すると同時に、女の意味がまた解らなくなった。それでもう少し進んだ説明を彼女に求めた。「外からは何でも頭の中に入って来ますが、それが心の中心と折合がつかないのです」「あなたのいう心の中心とはいったいどんなものですか」「どんなものと云って、真直まっすぐな直線なのです」私はこの女の数学に熱心な事を知っていた。けれども心の中心が直線だという意味は無論私に通じなかった。その上中心とははたして何を意味するのか、それもほとんど不可解であった。女はこう云った。「物には何でも中心がございましょう」「それは眼で見る事ができ、尺度ものさしで計る事のできる物体についての話でしょう。心にも形があるんですか。そんならその中心というものをここへ出して御覧なさい」女は出せるとも出せないとも云わずに、庭の方を見たり、膝ひざの上で両手を擦すったりしていた。「あなたの直線というのは比喩たとえじゃありませんか。もし比喩なら、円まると云っても四角と云っても、つまり同じ事になるのでしょう」「そうかも知れませんが、形や色が始終しじゅう変っているうちに、少しも変らないものが、どうしてもあるのです」「その変るものと変らないものが、別々だとすると、要するに心が二つある訳になりますが、それで好いのですか。変るものはすなわち変らないものでなければならないはずじゃありませんか」こう云った私はまた問題を元に返して女に向った。「すべて外界のものが頭のなかに入って、すぐ整然と秩序なり段落なりがはっきりするように納まる人は、おそらくないでしょう。失礼ながらあなたの年齢としや教育や学問で、そうき﹅ち﹅ん﹅と片づけられる訳がありません。もしまたそんな意味でなくって、学問の力を借りずに、徹底的にどさりと納まりをつけたいなら、私のようなものの所へ来ても駄目だめです。坊さんの所へでもいらっしゃい」すると女が私の顔を見た。「私は始めて先生を御見上げ申した時に、先生の心はそういう点で、普通の人以上に整ととのっていらっしゃるように思いました」「そんなはずがありません」「でも私にはそう見えました。内臓の位置までが調ととのっていらっしゃるとしか考えられませんでした」「もし内臓がそれほど具合よく調節されているなら、こんなに始終しじゅう病気などはしません」「私は病気にはなりません」とその時女は突然自分の事を云った。「それはあなたが私より偉い証拠しょうこです」と私も答えた。女は蒲団ふとんを滑すべり下りた。そうして、「どうぞ御身体おからだを御大切ごたいせつに」と云って帰って行った。

十九

私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その実じつ小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、寂さびれ切きってかつ淋さむしく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内しゅびきうちか朱引外か分らない辺鄙へんぴな隅すみの方にあったに違ないのである。それでも内蔵造くらづくりの家うちが狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上あがると、右側に見える近江屋伝兵衛おうみやでんべえという薬種屋やくしゅやなどはその一つであった。それから坂を下おり切きった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場で敵かたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂うわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北おきたさんの長唄ながうたは何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の宅うちの玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過ひるすぎなどに、私はよく恍惚うっとりとした魂を、麗うららかな光に包みながら、御北さんの御浚おさらいを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を靠もたせて、佇立たたずんでいた事がある。その御蔭おかげで私はとうとう「旅の衣ころもは篠懸すずかけの」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋かじやも一軒あった。少し八幡坂はちまんざかの方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃ場ばもあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋とんやの仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際つきあいからいうと、まるで疎濶そかつであった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄あいだがらに過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水ていすいと好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞ひとぎきに聞いて覚えてはいるが、纏まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立やたてと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度に挙あげて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじだのが﹅れ﹅ん﹅だのという符徴ふちょうを、罵ののしるように呼び上げるうちに、薑しょうがや茄子なすや唐とう茄子の籠かごが、それらの節太ふしぶとの手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。どんな田舎いなかへ行ってもありがちな豆腐屋とうふやは無論あった。その豆腐屋には油の臭においの染しみ込こんだ縄暖簾なわのれんがかかっていて門口かどぐちを流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗きれいだった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺せいかんじという寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後うしろは、深い竹藪たけやぶで一面に掩おおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤おつとめの鉦かねの音ねは、今でも私の耳に残っている。ことに霧きりの多い秋から木枯こがらしの吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて冷つめたい或物を叩たたき込むように小さい私の気分を寒くした。

二十

この豆腐屋の隣に寄席よせが一軒あったのを、私は夢幻ゆめうつつのようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場ひとよせばのあろうはずがないというのが、私の記憶に霞かすみをかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。その席亭の主人あるじというのは、町内の鳶頭とびがしらで、時々目暗縞めくらじまの腹掛に赤い筋すじの入った印袢纏しるしばんてんを着て、突っかけ草履ぞうりか何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤おふじさんという娘があって、その人の容色きりょうがよく家うちのものの口に上のぼった事も、まだ私の記憶を離れずにいる。後のちには養子を貰ったが、それが口髭くちひげを生はやした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。この養子が来る時分には、もう寄席よせもやめて、しもうた屋やになっていたようであるが、私はそこの宅うちの軒先にまだ薄暗い看板が淋さむしそうに懸かかっていた頃、よく母から小遣こづかいを貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟なんりんとかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男の家うちはどこにあったか知らないが、どの見当けんとうから歩いて来るにしても、道普請みちぶしんができて、家並いえなみの揃そろった今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像を逞たくましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし花魁おいらんえ、と云われて八やツ橋はしなんざますえとふり返る、途端とたんに切り込む刃やいばの光」という変な文句は、私がその時分南麟から教おすわったのか、それとも後あとになって落語家はなしかのやる講釈師の真似まねから覚えたのか、今では混雑してよく分らない。当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠ちゃばたけとか、竹藪たけやぶとかまたは長い田圃路たんぼみちとかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂かぐらざかまで出る例になっていたので、そうした必要に馴ならされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来やらいの坂を上あがって酒井様の火ひの見櫓みやぐらを通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森いんしんとして、大空が曇ったように始終しじゅう薄暗かった。あの土手の上に二抱ふたかかえも三抱みかかえもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間すきま隙間をまた大きな竹藪で塞ふさいでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄ひよりげたなどを穿はいて出ようものなら、きっと非道ひどい目にあうにきまっていた。あすこの霜融しもどけは雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に染しみ込こんでいる。そのくらい不便な所でも火事の虞おそれはあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子はしごが立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋いちぜんめしやもおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾なわのれんの隙間からあたたかそうな煮〆にしめの香においが煙けむりと共に往来へ流れ出して、それが夕暮の靄もやに融とけ込んで行く趣おもむきなども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木哉かな」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

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