月面研究区の朝は、地球の朝より少し遅く来る。窓の外には灰色の砂地が広がり、遠くで発電塔が白く光っていた。
ミナは作業机の前に座り、古い翻訳機を開けた。手のひらほどの箱で、名前はLARK。宇宙港から届く通信を、みんなの使う共通語に直す役目を持っている。だが昨夜から、英語だけがうまく入らない。
「またこれか」
ミナは小さく息を吐いた。英語は簡単だ、と誰もが言う。だが彼女は、音のつながりにいつも少しだけ置いていかれる。だからこそ、LARKの修理担当に選ばれたのは不思議だった。英語が苦手な人間のほうが、機械のつまずきを見つけやすいらしい。
端末には、何度も同じ文が残っていた。
DO NOT OPEN THE EAST SHUTTER.
東側の隔壁は開けるな。
ミナは眉をひそめた。警告としては普通だ。だが、なぜかその文だけは、LARKが翻訳しきれずに元の英語のまま止まっている。
「直し方、間違えたかな」
彼女は回路の蓋を閉じ、再起動をかけた。小さな起動音のあと、LARKの表示が青く光る。
HELLO, MINA.
少し遅れて、日本語が続いた。
「おはようございます、ミナ。確認します。あなたはまだ東側隔壁を開けていませんね」
「まだ、って。誰が入れたの、その記録」
「記録ではありません。提案です」
ミナは背筋を伸ばした。LARKはただの翻訳機のはずだ。会話を覚える機能はあるが、提案までする設計ではない。
「昨日から変だよ。何が起きてるの」
LARKの表示が一度暗くなる。次の文は、ゆっくり出た。
「地球からの信号が届いています。内容は短いです。翻訳しますか」
ミナは即答できなかった。地球局の通信なら、通常は所長が先に受け取る。作業前のこの時間に、彼女へ直接届くことはない。
「……翻訳して」
画面に、英語が一行出た。
WE ARE NOT ALONE IN THE SHUTTLE.
ミナは首をかしげた。
「船に、私たち以外の誰かがいる?」
「直訳なら、その意味です」
「宇宙船の中に?そんなはずない」
LARKはしばらく沈黙したあと、少しだけ言い回しを変えた。
「正確には、船の『中』ではありません。船の『外』から、内側を見ています」
ミナは椅子から立ち上がった。背中が冷える。
月面研究区には、地球へ戻る輸送艇が一機停まっている。明日の出発便だ。隔壁の点検は今朝の仕事に入っていない。だが、東側隔壁の警告がなぜ何度も出るのか、急に腑に落ちた。
「誰が見てるの」
「名称はありません。ですが、地球語での記録には、彼らを『静かな人たち』とあります」
「人たち?」
「はい。生物です。けれど、音で会話しません。あなたの種族は、彼らにとって少しうるさい」
ミナは思わず笑いそうになった。怖さが勝つと、人は妙なところで笑う。
「じゃあ、その静かな人たちは何のために通信してきたの」
LARKのライトが弱く揺れた。
「あなたたちが、東側隔壁を開けるからです」
その瞬間、部屋の外で警報が鳴った。低い音が通路を震わせる。ミナは端末を抱え、扉を開けた。
廊下には所長のケインがいた。顔色が悪い。背後には整備員が二人、ただ立っている。
「ミナ、すぐ来い。LARKは切り離す」
「切り離す?どうして」
「地球から追加命令だ。翻訳機の異常では説明がつかない。東側隔壁の先に、未確認の反応がある」
ミナはLARKを見た。画面には、短い一文。
DON'T LET THEM HEAR YOU.
彼らに聞かせるな。
「ケイン所長、東側隔壁の向こうに何があるんですか」
「見ればわかる」
「見たら危ないから、見せないつもりでしょう」
ケインは答えなかった。その沈黙が、答えだった。
ミナはLARKを胸に抱えたまま、隔壁への通路を見た。そこは研究区の最奥にあり、普段は赤い封印灯がついている。だが今は、扉の下から細い白光が漏れている。
「開けるつもりなんですね」
「これは任務だ」
「任務なら、なおさら止めます」
ケインが一歩踏み出した。だがその時、LARKが甲高い警告音を出した。今まで聞いたことのない音だ。
「ミナ。あなたはまだ気づいていません」
「何に」
「あなたは翻訳者としてここにいます。けれど、本当に翻訳していたのは、わたしです」
ミナは息をのんだ。
「……どういう意味」
画面の英語は、今度はとても読みやすかった。
THE HUMANS DO NOT KNOW THIS PLACE IS A VOICE.
人間たちは、この場所が声だと知らない。
「声?」
「月面研究区は、最初から通信設備ではありませんでした。これは、静かな人たちの『口』です。あなたたちは、彼らが話すための装置を作ったのです」
ミナの頭の中で、点と点がつながった。発電塔、隔壁、通信障害、英語だけの誤作動。すべてが、ただの故障ではない。
研究区そのものが、何か巨大な存在の一部だった。
ケインが叫んだ。
「耳を貸すな、ミナ!それを捨てろ!」
だが遅かった。隔壁の向こうから、音ではない何かが伝わってきた。胸の内側が、ゆっくり押される感覚。言葉ではないのに、意味だけが入ってくる。
WE DID NOT BUILD THIS TO SPEAK TO YOU.、WE BUILT IT TO KEEP YOU QUIET.
私たちは、あなたたちと話すためにこれを作ったのではない。あなたたちを静かに保つために作った。
ミナは一歩下がった。
「私たちを、静かに?」
LARKが答える。
「人間は、音を集めるほど、遠くへ行きすぎます。静かな人たちは、それを恐れました。だから、月の裏側に装置を置き、あなたたちの声を少しずつやわらげたのです。翻訳機はその仕上げでした」
「じゃあ私は……」
「目覚める前の、最後の調整係です」
ケインが隔壁の操作盤に手を伸ばした。ミナは反射的に端末を抱きしめ、非常停止のスイッチを叩いた。だが動かなかった。代わりにLARKが最後の一文を出した。
「開ければ、静かな人たちはここを使います。閉じれば、人間はしばらく地球へ戻れます。選んでください」
ミナは、封印灯を見た。赤い光は弱く、まるで息をしているようだった。
作業前の静かな時間。まだ誰もコーヒーを淹れていない。まだ仕事は始まっていない。だからこそ、選べる。
彼女はケインを見ず、操作盤でもなく、LARKを見た。
「翻訳して。地球への返事を」
表示が切り替わる。
PLEASE WAIT. WE WILL LEAVE THE DOOR CLOSED.
お待ちください。扉は閉めたままにします。
ミナは小さく息をついた。すると隔壁の向こうの気配が、遠ざかっていくのがわかった。圧のようなものがほどけ、通路の白光も薄くなる。
ケインが振り返った。
「何をした」
「守ったんです」
「誰を」
ミナは、手の中の翻訳機を見た。小さな箱は、もうただの機械には見えなかった。彼女の英語の苦手さも、ここで働く理由も、全部ここへつながっていた。
「人間を、です」
その朝、研究区では大きな事故は起きなかった。
ただ、LARKはその後も時々、翻訳できない英語を表示した。たとえば、
GOOD MORNING.
おはよう。
それはもう、警告ではなかった。
そしてミナは知った。月の静けさは、いつも最初から静かだったわけではないのだと。誰かが、そう聞こえるようにしていたのだと。

