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右大臣実朝・太宰治

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建保五年丁丑。三月小。十日、丁亥、晴、晩頭将軍家桜花を覧んが為、永福寺に御出、御台所御同車、先づ御礼仏、次に花林の下を逍遥し給ふ、其後大夫判官行村の宅に入御、和歌の御会有り、亥の四点に及び、月に乗じて還御。同年。四月大。十七日、甲子、晴、宋人和卿唐船を造り畢んぬ、今日数百輩の疋夫を諸御家人より召し、彼船を由比浦に浮べんと擬す、即ち御出有り、右京兆監臨し給ふ、信濃守行光今日の行事たり、和卿の訓説に随ひ、諸人筋力を尽して之を曳くこと、午剋より申の斜に至る、然れども、此所の為体は、唐船出入す可きの海浦に非ざるの間、浮べ出すこと能はず、仍つて還御、彼船は徒に砂頭に朽ち損ずと云々。同年。五月大。十一日、戊子、晴、申剋、鶴岳八幡宮の別当三位僧都定暁、腫物を煩ひて入滅す。廿七日、甲辰、去る元年五月亡卒せる義盛以下の所領、神社仏寺の事、本主の例に任せて興行せしむ可きの由、今日彼の跡拝領の輩に仰せらると云々。同年。六月小。廿日、丙刁、晴、阿闍梨公暁、園城寺より下著せしめ給ふ、尼御台所の仰に依りて、鶴岳別当の闕に補せらる可しと云々、此一両年、明王院僧正公胤の門弟となりて、学道の為に住寺せらるる所なり。同年。七月大。廿四日、己亥、晴、京都の使者参著す、去る十日より上皇御瘧病、毎日発らしめ給ふ、内外の御祈祷更に其験見えずと云々。廿六日、辛丑、晴、山城大夫判官行村、使節として上洛す、院御悩の事に依りてなり。同年。九月大。十三日、丁亥、将軍家海辺の月を御覧ぜんが為、三浦に渡御、左衛門尉義村殊に結構すと云々。卅日、甲辰、永福寺に始めて舎利会を行はる、尼御台所、将軍家並びに御台所御出、法会の次第、舞楽已下美を尽し、善を尽す。同年。十月大。十一日、乙卯、晴、阿闍梨公暁鶴岳別当職に補せらるるの後、始めて神拝有り、又宿願に依りて、今日以後一千日、宮寺に参籠せしめ給ふ可しと云々。建保六年戊寅。二月小。四日、丙午、快霽、尼御台所御上洛。同年。四月小。二十九日、庚午、晴、申剋、尼御台所御還向、去る十四日、従三位に叙せしむる可きの由宣下、上卿三条中納言即ち清範朝臣を以て、件の位記を三品の御亭に下さる、同十五日、仙洞より御対面有る可きの由仰下さると雖も、辺鄙の老尼竜顔に咫尺すること其益無し、然る可からざるの旨之を申され、諸寺礼仏の志を抛ち、即時下向し給ふと云々。同年。六月小。廿日、庚申、霽、内蔵頭忠綱朝臣勅使として下向す、先づ御車二両、已下御拝賀料の調度等、之を舁かしむ、疋夫数十人歩列す。廿一日、辛酉、晴、午剋、忠綱朝臣件の御調度等を御所に運ばしむ、御車二両、九錫彫の弓、御装束、御随身の装束、移鞍等なり、是皆仙洞より調へ下さると云々、将軍家、忠綱朝臣を簾中に召して御対面有り、慇懃の朝恩、殊に賀し申さると云々、凡そ此御拝賀の事に依りて、参向の人已に以て数輩なり、皆御家人等に仰せて、毎日の経営、贈物、花美を尽す、是併しながら、庶民の費に非ざる莫し。廿七日、丁卯、晴、陰、将軍家大将に任ぜられ給ふの間、御拝賀の為、鶴岳宮に参り給ふ、早旦行村の奉として、御拝賀有る可きの由を、下向の雲客等に触れ申す、申の斜に其儀有り。同年。七月大。八日、丁丑、晴、左大将家御直衣始なり、仍つて鶴岳宮に御参、午剋出御、前駆並びに随兵已下、去月廿七日の供奉人を用ゐらる。同年。八月大。十五日、癸丑、晴、鶴岳放生会、将軍家御参宮、供奉人の行粧、花美例に越ゆ、檳榔の御車を用ゐらる。十六日、甲寅、晴、将軍家御出昨の如し、流鏑馬殊に之を結構せらる。同年。九月小。十三日、辛巳、天晴陰、酉刻快霽、明月の夜、御所にて和歌の御会なり。同年。十月大。廿六日、乙丑、晴、京都の使者参ず、去る十三日、禅定三品政子従二位に叙せしめ給ふと云々。同年。十二月小。五日、癸卯、霽、鶴岳の別当公暁、宮寺に参籠して、更に退出せられず、数ヶの祈請を致され、都て以て除髪の儀無し、人之を恠しむ、又白河左衛門尉義典を以て、大神宮に奉幣せんが為、進発せしむ、其外諸社に使節を立てらるるの由、今日御所中に披露すと云々。廿日、戊午、晴、去る二日、将軍家右大臣に任ぜしめ給ふ。廿一日、己未、晴、将軍家大臣拝賀の為に、明年正月鶴岳宮に御参有る可きに依つて、御装束御車已下の調度等、又仙洞より之を下され、今日到著す、又扈従の上達部坊門亜相已下参向せらる可しと云々。公暁禅師さまは、その翌年の建保五年六月に京都よりお帰りになり、尼御台さまのお計ひに依つて鶴岳宮の別当に任ぜられました。前の別当職、定暁僧都さまはそのとしの五月に御腫物をわづらひ、既におなくなりになつてゐたのでございます。公暁禅師さまは、それまで数年、京都に於いて御学問をなさつて居られたのでございますが、あまり永く京都などに置くと、また謀叛の輩に擁立せられたりなどして栄実禅師さまの二の舞ひの、不幸な最期をとげられるやうな事が起らないとも限らぬといふ尼御台さまの御孫いとしのお心から、お使をつかはして、公暁禅師さまをむりやり鎌倉へ連れ帰らしめ、鶴岳宮の別当職に補せられたのが、あの、関東はおろか、京、西国、日本中を震撼させた凶事のもとになつたのでございます。その六月の末に、公暁禅師さまは御ところへも御挨拶にお見えになりましたが、もはやその時は十八歳、筋骨たくましい御立派な若者になつて居られました。身の丈も将軍家よりは、はるかにお高く、花やかなお顔立ちで色も白く、まことに源家嫡流の御若君に恥ぢぬ御容儀と拝されましたが、けれども、御幼少の頃からのあの卑しく含羞むやうな、めめしい笑顔はもとのままで、どこやら御軽薄でたより無く、赤すぎるお口元にも、またお眼の光にも、不潔なみだらなものさへ感ぜられ、将軍家の純一なおつとりした御態度に較べると、やつぱり天性のお位に於いて格段の相違があるやうに私たちには見受けられました。その日も禅師さまは、御奥の人たち皆に、みつともないほどの叮嚀なお辞儀をなされて、さうして将軍家に対してはさらに見るに忍びぬくらゐの過度のおあいそ笑ひをお頬に浮べて御挨拶を申し、将軍家はただ黙つて首肯いて居られまして、京から下著の人にはたいてい京の御話を御所望なされ、それが将軍家の何よりのお楽しみの御様子でございましたのに、この時、公暁禅師さまにはなんのお尋ねもなく、そのうへ少しお顔色がお曇りになつて居られるやうにさへ拝されました。ふいとそのとき思ひましたのでございますが、将軍家は、この卑しいつくり笑ひをなさる禅師さまをひどくお嫌ひなのではなからうか、滅多に人を毛嫌ひなさらず、どんな人をも一様においつくしみなされてまゐりました将軍家が、この公暁禅師さまの事になると奇妙に御不快の色をお示しになり、六年前に、禅師さまが御落飾の御挨拶にお見えになつた時にも、将軍家は終始鬱々として居られたし、それから後も御前に於いてこの禅師さまのお噂が出ると急に座をお立ちになつたり、何かお心にこだはる事でもございますやうな御様子で、その日も禅師さまが、おどおどして、きまりわるげなお態度をなさればなさるほど、いよいよ将軍家のお顔色は暗く、不機嫌におなりのやうに拝されましたので、これはひよつとしたら将軍家はこの禅師さまをかねがね、あきたらず思召しなされて居られるのではなからうかと、私も当時二十一歳にもなつて居りまして、まあ身のほど知らずの生意気なとしごろでもございますから、そのやうな推参な事まで考へたやうな次第でございました。その日、禅師さまが御退出なされて後も、将軍家はしばらくそのまま黙つてお坐りになつて居られましたが、ふいとお傍の私たちのはうを振りかへられ、あれには仲間も無くて淋しからう、これから時折、僧院へお話相手に伺ふがよい、と仰せられ、そのお言葉を待つまでも無く、私にはあのお若い禅師さまの兢々たる御遠慮の御様子がおいたはしく、そのお身の上にも御同情禁じがたく、いつかゆつくりお話相手にでもお伺ひしたいものと考へてゐた矢先でございましたので、それから十日ほど経つて七月のはじめ、御ところの非番の日に、鶴岳宮の僧院へ、何か義憤に似た気持さへ抱いてお伺ひ申し上げたのでございます。昼のうちは御読経、御戒行でおひまもございませぬ由、かねて聞き及んで居りましたので、夜分にお訪ね申しましたが、禅師さまは少しも高ぶるところの無い、いかにも磊落の御応接振りをお示し下され、部屋の中は暑い、海岸に出て見ませうと私をうながして、外へ出ました。月も星も無く、まことに暗い夜でございました。禅師さまは、何もおつしやらずにどんどんさきにお歩きになり、そのお早いこと、私はほとんど走るやうにしておあとについてまゐりました。由比浦には人影も無く、ただあの、ことしの四月以来なぎさに打ち拾てられたままになつてゐる唐船の巨大な姿のみ、不気味な魔物の影のやうに真黒くのつそりと聳え立つてゐるだけで、申しおくれましたがこの唐船は、れいの陳和卿の設計に依り、そのとしの四月には出来上つて、十七日これを海に浮べんとして、午の剋から数百人の人夫が和卿の采配に従ひ、力のあらん限りをつくして曳きはじめましたものの、かほどの大船を動かすのは容易な事ではないらしく、また和卿のお指図にもずいぶんいい加減なところがございましたやうで、日没の頃にいたつてやつと浪打際に、わづかに舳を曳きいれる事が出来ただけで、しかも、この遠浅の由比浦に、とてもこんな大船など浮べる事の出来ないのはわかり切つてゐると、その頃になつて言ひ出す者もあり、さう言はれてみるとたしかにそのとほり、大船の出入できる浦ではなく、陳和卿にはまた独特の妙案があり、かならずこの浦に船を浮ばせて見せるといふ確信があつてこの造船を引受けたに違ひないものと思はれるし、とにかく和卿に、当初からの見とほしをあらためて問ひただしてみよう、といふ事になつて和卿を捜しましたところが、陳和卿はすでに逐電、けふの日をたのしみに、早くから由比浦におでましになつて大船の浮ぶのを今か今かと余念なくお待ちになつて居られた将軍家もこの逐電の報をお聞きになつて、もはや一切をお察しなされたやうで、興覚めたお顔でお引上げになつてしまひまして、将軍家の御渡宋に烈しく反対なされて居られたお方たちは、この時ひそかにお胸を撫で下されたに違ひございませぬが、をさまらぬのは、お供に選び出された風流武者の面々で、せつかくあれだけの大船を造り上げたのにこのまま中止とは残念だ、ひとつ我々の手でもういちど海へ曳きいれてみようではないか、などと言ひ出すお方もあつた程でございましたけれども、海の深浅を顧慮する法さへ知らぬ大馬鹿者の造つた船なら、たとひ、はるか沖まで曳き出してみたところで、ひつくり返るにきまつてゐる、と分別顔の人に言はれて、なるほどと感服して引下り、あれほど鎌倉中を騒がせた将軍家の御渡宋も、ここに於いて、まことにあつけなく、綺麗さつぱりとお流れになり、船は由比浦の汀に打捨てられ、いたづらに朽損じて行くばかりのやうでございました。御度量のひろい将軍家に於いては、もちろん、御計画の頓挫をいつまでも無念がつていらつしやるやうな事は無く、あの、大かたり者の陳和卿に対してもいささかもお怒りなさらず、医王山ホド、ウマクイカナカツタヤウデス。と何もかもご存じのやうな和やかな御微笑を含んで、おつしやつた事さへございまして、その後いちども御渡宋の御希望などおもらしになつた事はございませんでした。かの陳和卿はその後、生死のほども不明でございまして、まさか、日野外山に庵を結んで「方丈記」をお書上げになつたといふやうな話も聞かず、やつぱり、ただやたらに野心のみ強く狡猾の奇策を弄して権門に取入らんと試みた、あさはかな老職人に過ぎなかつたやうに思はれます。「この船で、」と禅師さまは立止つて、そのぶざまな唐船を見上げ、「本当に宋へ行かうとなされたのかな。」「さあ、とにかく、鎌倉からちよつとでもお遁れになつてみたいやうな御様子に拝されました。」今夜は、なんでも正直に申し上げようと思つてゐたのでございます。「でも、あの医王山の長老とかいふ事だけは、信じてゐたのではないか。」「いいえ、あれは偶然に符合いたしましたところを興がつて居られたといふだけの事で、もつともそれは誰にしたつて、自分の前身は知りたいものでございますし、たとひ信じないにしても医王山の長老などといふ御立派なところで、はしなくも一致したといふのは、わるいお気もなさるまいと思はれます。」「うまい事を言ふ。」禅師さまは笑つて、「ここへ坐らう。浜は、やつぱり涼しい。私はこの頃、毎晩のやうにここへ来て、蟹をつかまへては焼いて食べます。」「蟹を。」「法師だつて、なまぐさは食ふさ。私は蟹が好きでな。もつとも私のやうな乱暴な法師も無いだらうが。」「いいえ、乱暴どころか、かへつて、お気が弱すぎるやうに私どもには見受けられます。」「それは、将軍家の前では別だ。あの時だけは全く閉口だ。自分のからだが、きたならしく見えて来て、たまらない。どうも、あの人は、まへから苦手だ。あの人は私を、ひどく嫌つてゐるらしい。」私はなんともお答へできませんでした。「あの人たちには、私のやうに小さい時からあちこち移り住んで世の中の苦労をして来た男といふものが薄汚く見えて仕様が無いものらしい。私はあの人に底知れず、さげすまれてゐるやうな気がする。あんな、生れてから一度も世間の苦労を知らずに育つて来た人たちには、へんな強さがある。しかし、叔父上も変つたな。」「お変りになりましたでせうか。」「変つた。ばかになつた。まあ、よさう。蟹でもつかまへて来ようか。」うむ、と呻いてお立ち上りになつて、「あの唐船の下に、不思議なくらゐたくさん蟹が集るのだ。陳和卿も、公暁のために苦心して蟹の巣を作つてくれたやうなものです。しかし、あれも馬鹿な男だ。」禅師さまは、ざぶざぶ海へはひつて行かれて唐船の船腹をおさぐりになつたので、私もそれに続いて海へはひつて禅師さまのなさるとほりに船腹をさぐつてみると、いかにも蟹が集つてゐる様子で、禅師さまは馴れた手つきで大きい蟹を一匹ひきずり出すが早いか船板にぐしやりとたたきつけて、砂浜へはふり上げ、あまりの無慈悲に私は思はず顔をそむけました。「残忍でございます。およしになつたら、いかがです。」私は砂浜へ引上げて来てしまひました。「とらない人には、食べさせないよ。」禅師さまは平気でそんな事を言ひながらも船腹をさぐり、また一匹引きずり出して、ぐしやりと叩きつけて砂浜へはふり上げ、「蟹は痛いとも思つてゐません。」それが五匹になつた時に、禅師さまは、低く笑ひながら砂浜へ上つて来られて、その甲羅のつぶれた蟹を拾ひ集めて、「なんだ、今夜のはみんな雌か。雌の蟹は肉が少くてつまらない。焚火をしよう。少し手伝つて下さい。」私たちは小枝や乾いた海草など拾ひ集めました。五匹の蟹を浅く砂に埋めてその上に小枝や海草を積み重ねて火を点じ、やがてその薪の燃え尽きた頃に、砂の中から蟹を拾ひ上げられて、「食べなさい。」「いや、とても。」「それでは私がひとりで食べる。私は蟹が好きなんだ。どうしてだか、ひどく好きなんだ。」おつしやりながら、器用に甲羅をむいてむしやむしや食べはじめて、ほとんど蟹に夢中になつていらつしやるやうに見えながら、ふいと、「死なうかと思つてゐるんだ。」「え?」私は、はつとして暗闇の中の禅師さまの顔を覗き込みました。けれども、こんどは蟹の脚をかりりと噛んで中の白い肉を指で無心にほじくり出し、いまはもう蟹の事の他は何も考へていらつしやらぬ御様子で、さうして、しばらくして、またふいと、「死なうと思つてゐるのです。死んでしまふんだ。」さうして、また、かりりと蟹の脚を齧つて、「鎌倉へ来たのが間違ひでした。こんどは、たしかに祖母上の落度です。私は一生、京都にゐなければならなかつたのだ。」「京都がそんなにお好きですか。」「まだ私の気持がおわかりにならぬと見える。京都は、いやなところです。みんな見栄坊です。嘘つきです。口ばかり達者で、反省力も責任感も持つてゐません。だから私の住むのに、ちやうどいいところなのです。軽薄な野心家には、都ほど住みよいところはありません。」「そんなに御自身を卑下なさらなくとも。」「叔父上が、あれほど京都を慕つてゐながら、なぜ、いちども京都へ行かぬのか、そのわけをご存じですか。」「それは、故右大将家の頃から、京都とはあまり接近せぬ御方針で、故右大将さまさへ、たつた二度御上洛なさつたきりで、――」「しかし、思ひ立つたら宋へでも渡らうとする将軍家です。」「邪魔をなさるお方もございませうし、――」「それもある。へんな用心をして叔父上の上京をさまたげてゐる人もある。けれども、それだけでは、ないんだ。叔父上には、京都がこはいのです。」「まさか。あれほどお慕ひしていらつしやるのに。」「いや、こはいんだ。京都の人たちは軽薄で、口が悪い。そのむかしの木曾殿のれいもある事だ。将軍家といふ名ばかり立派だが、京の御所の御儀式の作法一つにもへどもどとまごつき、ずんぐりむつつりした田舎者、言葉は関東訛りと来てゐるし、それに叔父上は、あばたです、あばた将軍と、すぐに言はれる。」「おやめなさいませ。将軍家は微塵もそんな事をお気にしてはいらつしやらない。失礼ながら、禅師さまとはちがひます。」「さうですか。将軍家が気にしてゐなくたつて、人から見れば、あばたはあばただ。祖父の故右大将だつて、頭でつかちなもんだから京都へ行つたとたんにもう、大頭将軍といふ有難くもないお名前を頂戴して、あんな下賤の和卿などにさへいい加減にあしらはれて贈り物をつつかへされたり、さんざん赤恥をかかされてゐるんだ。京都といふのは、そんないやなところなのです。けれども右大将家は、やつぱり偉い。京都の人から馬鹿にされようがどうされようが、ちつとも気にしてはゐないんだ。関東の長者の実力を信じて落ちついてゐたんだ。ところが、失礼ですけれども、当将軍家は、さうではないのです。とても平気で居られない。田舎者と言はれるのが死ぬよりつらいらしいので、困つた事になるのです。野暮な者ほど華奢で繊細なものにあこがれる傾きがあるやうだが、あの人の御日常を拝見するに、ただ、都の人から笑はれまいための努力だけ、それだけなんだ。あの人には京都がこはくて仕様がないんだ。まぶしすぎるんだ。京都へ行つても、京都の人に笑はれないくらゐのものになつてから、京都へ行きたいと念じてゐるのだ。それに違ひないのだ。やたらに官位の昇進をお望みになるのも、それだ。京都の人に、いやしめられたくないのだ。大いにもつたいをつけてから、京都へ行きたいのだらうが、そんな努力は、だめだめ。みんな、だめ。せいぜい、まあ、田舎公卿、とでもいふやうな猿に冠を着けさせた珍妙な姿のお公卿が出来上るだけだ。田舎者のくせに、都の人の身振りを真似るくらゐ浅間しく滑稽なものは無いのだ。都の人は、そんな者をまるで人間でないみたいに考へてゐるのだ。私も、京都へはじめて行つた時には、ずいぶんまごついた。くやし泣きに泣いた事もある。けれども私の生来の軽薄な見栄坊の血が、京の水によく合ふと見えて、いまではもう、結局自分の落ちつくところは京都ではなからうかと思ふやうにさへなつてゐる。私は山師だ。山師は絶対に田舎では生きて行けない。また田舎の人も、山師を決して許さない。田舎の人は冗談も何も無く、けちくさくて、ただ固い。けれども、あれはまた、あれでいいのだ。ただ黙つて田舎に住んでゐる人の中に、本当の偉い人間といふものが見つかるやうな気もする。いけないのは、田舎者のくせに、都の人と風流を競ひ、奇妙に上品がつてゐる奴と、それから私のやうに、田舎へ落ちて来た山師だ。私は、まさか陳和卿のやうに将軍家の前でわあわあ泣きはしないけれども、どうしてだか、つい卑屈なあいそ笑ひなどしてしまつて、自分で自分がいやになつていやになつてたまらない、いけない、いけない。このままぢやいけない。死ぬんだ。私は、死ぬんだ。」別の蟹の甲羅をむいて、むしやむしや食べて、「叔父上は私の山師を見抜いてゐる。陳和卿と同類くらゐに考へてゐる。私は、きらはれてゐる。さうして私だつて、あの田舎者を、冠つけた猿みたいに滑稽なものだと思つてゐるんだ。あはは、お互ひに極度に、さげすみ合つてゐるのだから面白い。源家は昔から親子兄弟の仲が悪いんだ。ところで将軍家は、このごろ本当に気が違つてゐるのださうぢやないか。思ひ当るところがあるでせう。」私は、ぎよつと致しました。「誰が、いや、どなたがそのやうなけしからぬ事を、――」「みんな言つてゐる。相州も言つてゐた。気が違つてゐるのだから、将軍家が何をおつしやつても、さからはずに、はいはいと言つてゐなさい、つて相州が私に教へた。祖母上だつて言つてゐる。あの子は生れつき、白痴だつたのです、と言つてゐた。」「尼御台さままで。」「さうだ。北条家の人たちには、そんな馬鹿なところがあるんだ。気違ひだの白痴だの、そんな事はめつたに言ふべき言葉ぢやないんだ。殊に、私をつかまへて言ふとは馬鹿だ。油断してはいけない。私は前将軍の、いや、まあ、そんな事はどうでもいいが、とにかく北条家の人たちは根つからの田舎者で、本気に将軍家の発狂やら白痴やらを信じてゐるんだから始末が悪い。あの人たちは、まさか、陰謀なんて事は考へてゐないだらうが、気違ひだの白痴だのと、思ひ込むと誰はばからずそれを平気で言ひ出すもんだから、妙な結果になつてしまふ事もある。みんな馬鹿だ。馬鹿ばつかりだ。あなただつて馬鹿だ。叔父上があなたを私のところへ寄こしたのは、淋しいだらうからお話相手、なんて、そんな生ぬるい目的ぢやないんだ。私の様子をさぐらうと、――」「いいえ、ちがひます。将軍家はそんないやしい事をお考へになるお方ではございませぬ。」「さうですか。それだから、あなたは馬鹿だといふのだ。なんでもいい。みんな馬鹿だ。鎌倉中を見渡して、まあ、真人間は、叔父上の御台所くらゐのところか。ああ、食つた。すつかり食べてしまつた。私は、蟹を食べてゐるうちは何だか熱中して胸がわくわくして、それこそ発狂してゐるみたいな気持になるんだ。つまらぬ事ばかり言つたやうに思ひますが、将軍家に手柄顔して御密告なさつてもかまひません。」「馬鹿!」私は矢庭に切りつけました。ひらりと飛びのいて、「あぶない、あぶない。鎌倉には気違ひがはやると見える。叔父上も、いい御家来衆ばかりあつて仕合せだ。」さつさと帰つておしまひになりました。闇の中にひとり残されて、ふと足許を見ると食ひちらされた蟹の残骸が、そこら中いつぱいに散らばつてゐるのがほの白く見えて、その掃溜のやうな汚なさが、そのままあの人の心の姿だと思ひました。翌る日、御ところへ出仕して、昨夜、僧院へお話相手にお伺ひした事を言上いたしましたところが、将軍家に於いては、ただ軽く首肯かれただけで、別にその時の様子などを御下問なさるやうな事もなく、かへつて私のはうから、「禅師さまには、ふたたび京都へおいでになりたいやうな御様子でございました。」と要らざる出しやばり口をきいたやうな次第でございましたけれども、将軍家はちよつとお考へになつて、それから一言、ドコヘ行ツテモ、同ジコトカモ知レマセン。と私の気のせゐかひどく悲しさうな御口調で呟やかれました。やつぱり将軍家は、何もかも御洞察になつて居られるのだ、と私はただ深い溜息をつくばかりでございました。さうして、そのとしも、また翌年の建保六年も、将軍家の御驕奢はつのるばかり、和歌管絃の御宴は以前よりさらに頻繁になつたくらゐで、夜を徹しての御遊宴もめづらしくは無く、またその頃から鶴岳宮の行事やもろもろの御仏事に当つてさへ、ほとんど御謙虚の敬神崇仏の念をお忘れになつていらつしやるのではないかと疑はれるほど、その御儀式の外観のみをいたづらに華美に装ひ、結構を尽して盛大に取行はせられ、尼御台さまも、相州さまも入道さまも、いまは何事もおつしやらず、ことに尼御台さまに於いては、世上往々その専横を伝へられながらこの将軍家に対してだけはあまりそのやうな御形跡も見受けられず、まさかあの不埒な禅師さまの言ふやうに、将軍家をお生れになつた時からの白痴と思召されてゐたわけでもございますまいに、前将軍家左金吾禅室さまの御時やら、当将軍家御襲職の前後には、なかなか御活躍なさつたものでございましたさうで、また当将軍家があの恐しい不慮の御遭難に依つておなくなりになられたのち、ふたたび急にあらはに御政務にお口出しなさるやうになつて、尼将軍などと言はれるやうになつたのも、実にその頃からの事のやうでございますが、けれども、この将軍家の頃には、前にもちよつと申し上げましたやうにひたすら左金吾禅室さまの御遺児をお守りして優しい御祖母さまになり切つて居られたやうにさへ見受けられ、当将軍家御成人の後には御政務へ直接お口出しなさつた事などほとんど無く、この建保五、六年の将軍家の御奢侈をさへ厳しくおいさめ申したといふ噂を聞かず、かへつてその華美を尽した絢爛の御法要などに御台所さまと御一緒にお見えになつて、御機嫌も、うるはしい御模様に拝され、それは決して当将軍家の事を白痴だなどと申してあきらめていらつしやる故ではなく、心から御信頼あそばしていらつしやるからこそ、このやうな淡泊の御態度をお示しになる事も出来るのであらうと、私たちと致しましては、なんとしても、そのやうにしか思はれなかつたのでございました。建保六年の三月には、将軍家かねて御嘱望の左近大将に任ぜられ、六月二十七日にはその御拝賀のため鶴岳宮にお参りなさいましたが、その折の御行列の御立派だつたこと、まさに鎌倉はじまつて以来の美々しい御儀式でございまして、すでに御式の十日ほど前から京の月卿雲客たちが続々とその御神拝に御列席のため鎌倉へお見えになつて居られまして、二十日には、御勅使内蔵頭忠綱さまの御参著、かしこくも仙洞御所より御下賜に相成りましたところの、御拝賀の御調度すなはち檳榔、半蔀の御車二輛、御弓、御装束、御随身の装束、移鞍などおびただしく御ところにおとどけになられ、将軍家はいまさらながら鴻大の御朝恩に感泣なされて、御勅使忠綱さまに対して実に恭しく御礼言上あそばされ、御饗応も山の如く、この日にはまた池前兵衛佐為盛さま、右馬権頭頼茂さまなども京より御下著になり、このお方たちにもまたお手厚い御接待を怠らず、御式の日に至るまで連日連夜、御饗宴、御進物など花美を尽し、ために費用も莫大なるものになりました御様子で、関東の庶民は等しくその費用の賦課にあづかり、ひそかに将軍家をお怨み申した者も少からずございました由、風のたよりに聞き及んで居ります。けれども将軍家に於いては、御費用の事など一向にお気にとめられぬ御様子で、その二十七日にめでたく御拝賀の式がおすみになると、さらに七月八日、左大将御直衣始の御儀式を挙げられ、先月二十七日の御拝賀の折と全く御同様の大がかりな御粧ひの御行列にて鶴岳宮へ御参拝に相成り、いまはもう、御家人といひ土民といひ、ほとんどその財産を失ひ、愁歎の声があからさまに随処に起る有様でございましたのに、さらに、そのとしの十二月二日、将軍家いよいよ右大臣に任ぜられ、二十日、右大臣政所始の御儀式を行はせられ、二十一日、将軍家右大臣御拝賀のためその翌年の正月二十七日鶴岳八幡宮に御参詣有るべきに依つて、またも仙洞御所より御下賜の御車、御装束など一切の御調度が鎌倉へ到著し、鎌倉中は異様に物騒がしくなり、しかもこのたびの御拝賀の御式は、六月の左近大将拝賀の式よりも、はるかに数層倍大規模のものになる様子で、ただごとではない、と御ところの人たちも目を見合せ、ともしびの、まさに消えなんとする折、一際はなやかに明るさを増すが如く、将軍家の御運もここ一両年のうちに尽きるのであるまいかといふ悲しい予感にさへ襲はれ、思へば十年むかし、私が十二歳で御ところへ御奉公にあがつて、そのとき将軍家は御十七歳、あの頃しばしば御ところへ琵琶法師を召されて法師の語る壇浦合戦などに無心にお耳を傾けられ、平家ハ、アカルイ、とおつしやつて、アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ、と御自身に問ひかけて居られた時の御様子が、ありありと私の眼前に蘇つてまゐりまして、人知れず涙に咽ぶ夜もございました。あのけがらはしい悪別当、破戒の禅師は、その頃、心願のすぢありと称して一千日の参籠を仰出され、何をなさつてゐるのやら鶴岳宮に立籠つて外界とのいつさいの御交通を断ち、宮の内部の者からの便りによれば、法師のくせに髪も鬚も伸ばし放題、このとしの十二月、ひそかに使者をつかはして太神宮に奉幣せしめ、またその他数箇所の神社にも使者を進発せしめたとか、何事の祈請を致されたのか、何となく、いまはしい不穏の気配が感ぜられ、一方に於いては鎌倉はじまつて以来の豪華絢爛たる大祭礼の御準備が着々とすすめられ、十二月二十六日には、御拝賀の御行列に供奉申上げる光栄の随兵の御撰定がございまして、そもそもこのたびの御儀式の随兵たるべき者は、まづ第一には、幕府譜代の勇士たる事、次には、弓馬の達者、しかしてその三つには容儀神妙の、この三徳を一身に具へてゐなければならぬとの仰せに従ひ、名門の中より特に慎重に撰び挙げられたいづれ劣らぬ容顔美麗、弓箭達者の勇士たちは、来年正月の御拝賀こそ関東無双の晴れの御儀にして殆んど千載一遇とも謂ひつべきか、このたび随兵に加へらるれば、子孫永く武門の面目として語り継がん、まことに本懐至極の事、と互ひに擁して慶祝し合ひ、ひたすら新年を待ちこがれて居られる御様子でございましたけれども、当時、鎌倉の里に於いて、何事も思はず、ただ無心にお喜びになつていらつしやつたのは、おそらく、このお方たちだけでは無かつたらうかと思はれます。

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