建暦二年壬申。二月大。三日、庚辰、晴、辰刻、将軍家並びに尼御台所、二所に御進発、相州、武州、修理亮以下扈従すと云々。八日、乙酉、将軍家以下二所より御帰著。十九日、丙申、京都の大番、懈緩の国々の事、之を尋ね聞召さるるの後に就いて、今日其沙汰有り、向後に於ては、一ヶ月も故無くして不参せしめば、三ヶ月懃め加ふ可きの由、諸国の守護人等に仰せらる、義盛、義村、盛時之を奉行す。廿八日、乙巳、相模国相漠河の橋数ヶ間朽ち損ず、修理を加へらる可きの由、義村之を申す、相州、広元朝臣、善信の如き群議有り、去る建久九年、重成法師之を新造して供養を遂ぐるの日、結縁の為に、故将軍家渡御、還路に及びて御落馬有り、幾程を経ずして薨じ給ひ畢んぬ、重成法師又殃に逢ふ、旁吉事に非ず、今更強ち再興有らずと雖も、何事の有らんやの趣、一同するの旨、御前に申すの処、仰せて云ふ、故将軍の薨去は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給ふ後の御事なり、重成法師は、己の不義に依りて、天譴を蒙るか、全く橋建立の過に非ず、此上は一切不吉と称す可からず、彼橋有ること、二所御参詣の要路として、民庶往反の煩無し、其利一に非ず、顛倒せざる以前に、早く修復を加ふ可きの旨、仰出さると云々。同年。五月小。七日、辛酉、相模次郎朝時主、女事に依りて御気色を蒙る、厳閤又義絶するの間、駿河国富士郡に下向す、彼の傾公は、去年京都より下向す、佐渡守親康の女なり、御台所の官女たり、而るに朝時好色に耽り、艶書を通ずと雖も、許容せざるに依り、去夜深更に及びて、潜かに彼局に到りて誘ひ出すの故なりと云々。あくる建暦二年の二月に、私は、はじめて二所詣のお供をさせていただきました。承元元年正月以来五年振りのお詣りでございましたが、承元元年には将軍家は十六歳、その時には私はまだ御ところの御奉公にあがつてゐませんでしたので、このたびはそれこそ本当に、生れてはじめてのお供でございました。将軍家はこのとしから、ほとんど毎年、欠かさず二所詣をなさいまして、建保二年には正月と九月と二度もお参り致しました程で、その敬神のお心の深さは故右大将さまにもまさつて居られるやうに思はれました。故右大将さまも、なかなかに御信心深く、敬神崇仏をその御政綱の第一に置かれて、挙兵なされて間もない寿永元年には、その重だつた御家来たちに御慫慂なさつて、おのおの神馬砂金を伊勢の大廟に奉献せさせ、また伊勢別宮たる鎌倉の甘縄神社にはそれから程なく御自身、御台所さまと共に御参詣なされたとか、そのうへ、御幼時から観音経や法華経を御日課として読誦なされて居られたお方だつたさうで、その御信心の深さのほどに就いては、いろいろと承つて居りますけれども、当将軍家もまた御襲職以来、伊勢内外宮を始め鶴岳、二所、三嶋、日光その他あまたの神社に神馬を奉納仕り、御参拝も怠らず、またその伊勢の大神の御嫡流たる京都御所のかしこき御方々に対する忠誠の念も巌の如く不動のものに見受けられました。この事に就いてはまたのちほども申し上げたいと存じて居りますが、このとしの二月、二所詣からお帰りになつて間もなくのこと、京都を守護し奉つてゐる諸国の侍たちがこのごろ役目を怠りがちだといふ事をお聞きになつて、大いに恐懼なされ、もつてのほかの事、今後は、一箇月間つとめを休んだ者にはさらに三箇月勤務を強ひるやう、と諸国の守護人にきつく申し渡されたやうな事もございました。もはや将軍家も御年二十一、次第に、荘厳と申してよいほどの陰影の深い尊さがその御言動にあらはれるやうになつて居りまして、同じ月の二十八日にも、実にお見事なる御裁決をなさいました。二所詣の途次、相模川の橋がところどころ破損してゐて、私たちが渡る時にもひどく危い思ひを致しまして、その時、将軍家はお傍の人に、多くの人が難儀をするから早く修理させたらよからうとおつしやつて居られましたが、そのお言ひつけに就いて、けふ三浦兵衛尉さまからお話が出て、相州さま、前大膳大夫さま、善信入道さまなど打寄つて協議なさいましたところ、なかなか御意見がまとまらず、数剋後、その修理はしばらく見合せませうといふ事に落ちついた模様でございました。その理由としては、どうもあまり、おとなげのない話でございますが、その橋には気味の悪い因縁があるのださうで、もともとその橋はあの稲毛の三郎重成入道さまが新造なされましたものださうで、その橋の出来た時に故右大将家が供養に出むかれ橋をお渡りになつて、それが例の建久九年の十二月、その供養がおすみになつてお帰りの途中で御落馬なされ、それがもとで御病床におつきになつて翌年の正治元年の正月に御年五十三でおなくなりになられたのはどなたもご存じの事でございませう、その因縁がある上に、橋の本願人の重成入道さまは、すぐ後に牧の方さま等と悪逆の陰謀をたくらみ、これまたかんばしからぬ死に方をなさいましたし、あれと言ひこれと言ひ、どうも不吉だ、あの橋には、まことにいやな怨霊がつきまとつてゐるといふ事が主なる理由で、修理見合せと衆議一決いたしまして、それを将軍家の御前に於いて披露いたしましたところが、将軍家はその時には、あのいつものお優しい御微笑もなさらず、一座の者に襟を正さしむるほどの厳粛なお態度で、それは違ひます、故将軍の薨去は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給うて後の御事にして謂はば天寿、それとも何か、あの橋のために奇々怪々の御災厄に逢ひあさましき御最期をとげられたとでも申すのか、まさかさうとも思はれませぬ、また重成法師の事などは論外、あのやうな愚かしき罪をなして殃に逢ふは当然、すなはち天罰、いづれも橋建立のためのわざはひではありませぬ、以後、不吉などといふ軽々しき言葉は一切用ゐぬやう、あの橋を修理すれば往来の旅人ども、どのやうに助かるかわかりませぬ、何事も多くの庶民のためといふ、この心掛けを失つてはならぬ、一刻も早く橋の修理に取りかかるやう、とそれまで例のなかつた幾分はげしいくらゐの御口調で、はつきり御申渡しになりました。御重臣たちは色を失ひ、こそこそ御退出なさいましたが、相州さまだけは御退出の際もにこにこ笑つて、さうして舌をお出しなさいました。けれども、それは決して将軍家を侮蔑なさるやうな失礼なお気持からではなく、やられたわい、と御自身にてれて、そのやうな仕草をなさつたやうに見受けられ、私もつられて、つい微笑んでしまひました。ずいぶんお意地がお悪いといふ評判が、専らでございましたけれど、その相州さまにも、またこんな明るい気さくな一面があつたのでございます。いつたいこの相州さまは、故右大臣さまのお小さい御時分から、どういふものか右大臣さまを贔屓で、俗にいふ虫が好いたとでもいふのでございませうか、なんでもかでも、千幡さまにかぎるといふお工合のお熱のあげかたでございまして、この千幡さまに将軍家をお襲がせ申したいばかりに、御父君の時政公とお力を合せて御政敵の比企氏と争ひこれを倒し、建仁三年、千幡さまはそのお蔭か首尾よく征夷大将軍の宣旨を賜り、実朝といふ諱もこのとき御朝廷からいただいたのださうでございますが、それからすぐに御父君の時政公が、牧の方さまにそそのかされ、このお幼い将軍家を弑し奉らんと計つた時には、相州さまは逸早くその御異図を感知なされ、こんどはみづからの御父母君とさへ争ひ、将軍家を御自身のお宅にお迎へ申し、御家来衆と共に厳重に護衛いたし、御義母の牧の方さまには御自害を強ひ、御実父の時政公には出家をすすめて、幼い将軍家をからくも御災厄からお救ひ申し上げたといふ大手柄もございましたさうで、それから後も相州さまは蔭になりひなたになり当将軍家の御育成にのみお心を用ゐ、自らは執権として御政務の第一の後見者となり、今に故右大将家をも凌ぐ大将軍になし奉らんとそれを楽しみにして朝夕怠らずお仕へ申して居られたやうにも見受けられましたが、どうしたものか、さらに後にいたつては少し御様子がお変りになりましたやうでございます。一つには、当将軍家の比類を絶した天稟の御風格が、さすがの相州さまのお手にもあまるやうになつて来たからではないかと、まあ、下賤の愚かな思案でございますが、なんだかそんな事も、後のさまざまの御不幸の原因になつてゐるやうな気が私には致しますのでございます。まことにその建暦二年の頃から、将軍家に於いては、ひとしほ森厳の大きい御風格をお示しなさるやうになつて、相模川の橋の件では居並ぶ御重臣たちの顔色を失はしめ、また政務の方面ばかりではなく、れいの和歌の方面に於いても、このとしあたりから更に異常の御上達をなされた御様子で、ほとんど神品に近いお歌が続々とお出来になつたのでございました。そのとしの三月九日に、将軍家は、尼御台さま、御台所さま、それから相州さまや武州さま、前夫膳大夫広元さま、鶴岳の別当さま、私たちまでお連れになつて、三浦三崎の御屋敷にお渡りになりまして、一日、船遊びに打興じましたが、その時、将軍家のおよみになつたお歌は、ほとんど人間業ではなく、あまりの美事に、お心のお優しい御台所さまなどは、両三遍拝誦してお涙を御頬に走らせて居られました。アラ磯ニ浪ノヨルヲ見テヨメル、大海ノ磯モトドロニヨスル波ワレテクダケテサケテ散ルカモ、一言の説明も不要かと存じます。御台所さまの御事でも申し上げませう。前にもちよつと申し上げましたが、この御台所さまは、かしこきあたりとも御姻戚関係がおありになる京の御名家、坊門信清さまの御女子にて、元久元年、御年十三にして当将軍家へ御輿入に相成りました由にございます。人の話に依りますと、そのとしの十月十四日には関東切つての名門の中から特に選び出された容儀華麗、血気の若侍のみ二十人、花嫁さまをお迎へに京都へ出向かれ、その若侍のうち正使の左馬の介政範さまが京都へ着くと同時に御病気でおなくなりになられ、また畠山の六郎重保さまは京の宿舎の御亭主たる平賀の右衛門朝雅さまとささいの事から大喧嘩をはじめてそれが畠山御一族滅亡の遠因になつたなどの騒ぎもございましたが、まあ、それでもどうやら大過なく十二月十日、姫さまの関東御下向の御行列を警衛なさつて、その時の御行列の美々しかつたこと、今でも人の語り草になつてゐるやうでございます。京を御進発の十二月十日は、一天晴れて雲なく、かしこくも上皇さまは法勝寺の西の小路に御桟敷を作らせそれへおのぼりになつて、その御行列を御見送りあそばしたとか、まづ先頭は、例の関東切つての名門の若侍九人、錦繍の衣まばゆく、いづれ劣らぬあつぱれの美丈夫、次には騎馬の者二人、次に雑仕二人、次にムシ笠の女房六人、それから姫さまの御輿、次に力士十六人、次に仲国さま、秀康さま、いづれも侍のこしらへ、次に少将忠清さまの私兵十人、その次がまた、例の関東切つての美男若君十人、それから女房の御輿が六つもつづいて、衣服調度ことごとく金銀錦繍に非ざる無く、陽を受けて燦然と輝き、拝する者みな、うつとりと夢見るやうな心地になつてしまひましたさうで、けれども花嫁さまの御輿から幽かに、すすり泣きのお声のもれたのを、たしかに聞いたと言ひ張る人もございましたさうで、まさか、そのやうな事のあるべき筈はございませぬが、でも御年わづか十三歳、見知らぬ遠いあづまの国へ御下向なさるのでございますから、ずいぶんお心許なく思召したに違ひございませぬ。将軍家に於いても、それを御明察なさらぬわけはなく、何かと優しくおいたはりになつた事と存ぜられます。私が御ところへあがつた時には、御台所さまもすでに御年十七歳、あづまの水にも言葉にも、すつかりお馴れの御様子で、京をお恋ひなさるやうな御気色はみぢんもお見せになりませんでした。さうして故右大臣さま御在世中は、ただの一度も京へおいでになられた事もなく、しんから鎌倉のお人になり切つて居られて、右大臣さまがあのやうな御最期なされたその翌日、荘厳房律師行勇さまの御戒師にて、ほとんど御家人のどなたよりもさきに御剃髪なさいました。風にも堪へぬやうな、弱々しく﨟たけたお方ではごさいましたが、やはり尊いお生れつきのお方はなんといつても違ふもので、征夷大将軍源実朝公の御台所に恥ぢぬ凜乎たる御自負と御決意とをつねにそのお胸の内にお収めなさつて居られたやうに日頃、私たちにも拝されました。そのやうにお心ばえのうるはしい御台所さまでございましたから、あのお強い御気性の尼御台さまも、この御台所さまをお可愛がりなさる事ひとかたでなく、どこへおいでになるにもお連れになつて、お互ひ実の御親子以上にお打解けられ末しじゆう御睦じくして居られたやうでございました。将軍家の御台所さまを御大切になさることもまた、それに劣らず、承元四年の六月の事でございましたが、御台所さまのおつきの女房丹後局さまが、京都へまゐりまして鎌倉への帰途、駿河国宇都山に於いて群盗に逢ひ、所持の財宝ならびに、御台所さまの御実家、坊門さまより整へ下された御台所さまへの御土産の御晴衣など悉く盗み取られたといふ事件がございまして、将軍家はそれをお聞きになり、御台所さまをお気の毒に思召したからでもございませう、直ちに駿河以西の海道の駅々に夜番を立たせ、これからも厳重に旅人の警固につとめさせるやう幕府の守護人にお言ひつけになり、またそのお土産の御晴衣なども必ず尋ね出させるやう手配なすべし、と仰出されました。将軍家のこのやうな深い御愛情には、御台所さまも、さだめし蔭でお泣きなされた事と存じます。お揃ひで社寺へお詣りなさる事も度々ございましたし、またお花見や、お月見、また船遊びなどには、いつも御台所さまをお誘ひになり、殊にも和歌会や絵合せの折には、御台所さまは、それこそ、なくてかなはぬお方で、将軍家に京風の粋をお教へ申し上げるお優しい御指南役のやうにさへ見受けられました。このやうに御仲御綺麗に、いつも変らず御円満でございましたが、たつた一つお淋しげなところは、つひにお子さまがお出来にならなかつた事で、このやうにお二人とも何から何まで美事に卓絶なさつて居られる御夫婦には天の御配慮によつて、お子の出来ないといふ事は、ままございますことで、私どもには少しも不思議ではないのでございますけれども、それをまた、例のせんさく好きが、何かと下司無礼の当推量などいたしまして、あのやうなけがらはしい事を口にして、よくその口が腐らぬものだと、私どもにはかへつてそのはうが不思議なくらゐでございます。それは私も、はつきり申し上げる事が出来るのですが、故右大臣さまは、お酒を飲み、花や月に浮かれてお歩きになつた事はございますけれども、お奥の女房たちに対して、とやかくの事は、その御生涯を通じて一度もございませんでした。恋のお歌だけは、あまり御上手でないと、あの鴨の長明入道さまもおつしやいましたが、忍ビテイヒワタル人アリキなどとお歌の端にはお書き込みになつて居られるものの、それこそまるで絵そらごと、長明入道さまの言ひ方に従へば、ウソでございます。考へてみると、あの入道さまの御眼力は、まことに恐るべきもので、将軍家は恋といふものをご存じなさらぬ、とためらはず御断言なさいましたが、和歌は心の鏡とか、そのお歌を拝読しただけで将軍家のあまりにも淡泊の御性情を底まで見抜いてしまつたのかも知れませぬ。それは永い間に二人、三人、ほのかな御贔屓にあづかつた女房もございませうが、けれどもあんな、下劣な取沙汰のやうな事実は、決して、一度もございませんでした。まづ御自身からそのやうに御清潔になさつて居られましたので、御ところの人たちに対しても、お酒をのんで乱酔に及んだりなどの失態は笑つてお許しもなさいましたが、好色のあやまちには、つねに厳罰をもつておのぞみになられました。その建暦二年の五月にも、執権相州さまの御次男朝時さま、このお方は色の白い、立派に御肥満の美男でございましたが、御兄君の修理亮泰時さまのあの御発明に似ず、どうも何事もあまりお出来にならないやうでございました。日頃、色を好まれるお方らしく、私もくはしい事は存じませぬが、なんでも御台所さまの女房の、その前年京都より下向したばかりの、氏育ち共にいやしからぬ一美形に、思ひを寄せた、とでも申すのでございませうか、その辺の機微は武骨の私どもにはわかりませぬ、とにかく艶書などの御工夫もあれこれなさいました御様子で、まことに、ばからしいお話で恐縮でございます。その艶書も極めてお手際のまづいものだつたのでございませう、一向にききめが無く、いまはこれまでと滅茶苦茶におなりになつて風流の御工夫も何もお棄てになり、深夜、その女房どののお局に忍び込み、ぐいぐいひつぱり出したとか、どうとか、それもまたお手際の極めてまづいところがございましたやうで大騒ぎになりまして、たちまち近習に召捕られてしまひました。御運のお悪いお方でございます。けれども、いまをときめく執権相州さまの次男若君の事でございますし、またその罪も、まあどちらかと言へば、御ところのお笑ひ草の程度で、そんなに憎むべき大悪業でもないやうに私たちには思はれて、翌日早々お許しの出る事と噂をして居りましたところが、その翌日、将軍家は事のあらましをお聞きになり一議に及ばず、鎌倉追放を御申渡しになりました。仕ヘル者ノハリツメタ心モ知ラヌ。親ニモ同胞ニモワカレテ仕ヘテヰルノデス。と、お顔を横に向けて中庭の樹々の青葉にお眼をそそぎながら静かにおつしやいました。その両親とも兄弟姉妹ともわかれて、ひとり御ところに奉公してゐる者の朝夕ひたすら緊張してゐる心も知らず、おのれの色慾の工夫ばかりしてゐる人の愚かしさを、つよくおとがめになつたのだといふ御深慮の程が、私たちにもはじめて納得出来ました。相州さまも、その場に控へて居られましたが、さすがに御賢明の御人物だけあつて、この正しい道理に今は抗すべからずと即座に御観念なさつた御様子で、次郎朝時をただいまより勘当いたすべき旨、未練気もなく将軍家に言上なさいましたので、朝時さまも、あてがはづれて泣きながら駿河国富士郡の片田舎に落ちて行かれた由にございます。好色の念のつつしむべきはさる事ながら、将軍家が、御ところに奉公してゐる女房、童たちを、どのやうに慎重に正しくいつくしんで居られたか、このやうなお笑ひ草にも似た小さい例証に依つても明々白々におわかりの事と存じます。かへすがへす無礼千万の、あの憎むべき下賤の取沙汰の如き事実は、まことに、みぢんも見受けられなかつたといふ事をここに繰り返して申し上げて置く次第でございます。
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